ニュースリリース

今枝由郎様コラム

2021年4月8日
まだまだコロナ禍が続きますが、爽やかな季節を迎えました。お変わりありませんか。
昨年初めにコロナ禍が始まって以来、外国渡航が許されない中、わたしは国内、そして何よりも家に蟄居しています。そのおかげと言ってはなんですが、逆に読書、思索に思い切り自由に羽を伸ばしています。
日本の三大随筆の一つとされる『徒然草』の最後第二四三段、いわゆる「仏問答」に、著者吉田兼好(一二八三年頃ー一三五二年以降)は次のように記しています。

八つになりし年、父に問ひて云はく「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。
父が云はく、「仏には人の成りたるなり」と。
また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。
父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。
また問ふ、「教え候ひける仏をば、何が教え候ひける」と。
また答ふ、「それもまた、先の仏の教へによりて成り給ふなり」と。
また問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」
という時、父、「空よりや降りけん、土よりや湧きけん」といひて笑う。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

これは著者が八歳になったとき、父卜部兼顕を「仏とは何であるか」という質問で追い詰め、ついに答えられなくしたという回想エピソードです。
わたしは中学三年生のとき、同じような経験をしました。浄土真宗の檀家であった父は朝晩仏壇に向かって、『しょーしんげ』を読誦した後、「ナマンダブ、ナマンダブ」と唱えていました。わたしはといえば、父の後ろに座って、何もわからないまま、同じように唱えるのが朝の日課でした。幼い頃から、父はわたしが何を訊いても答えてくれる、わたしにとっての知のスーパースターでした。ところが、「ナマンダブ、ナマンダブ」とは、「アミダサマ」とは何かと尋ねたとき、父がまさに「問ひ詰められて、え答へずなり侍」ったのは、わたしにとっては天地がひっくり返る衝撃でした。父が何年間も毎日朝晩、自分自身が何も理解せずに、「ナマンダブ、ナマンダブ」と唱えていたとは、信じられませんでした。と同時に、鬼の首を取ったような妙な自悦感を味わったのも事実です。
そして志学の年、わたしは高校に進学しました。高校では、中学までにはなかった「漢文」「古文」のような学科もあり、知的好奇心の強い少年には刺激的でした。しかし、「ナマンダブ」、「アミダサマ」説明してくれる先生は誰もいませんでした。お経はわかろうとするものではなく、ただありがたく聞くだけ、という諦め切った大人の態度が、わたしにはどうしても納得できませんでした。誰も教えてくれないのなら、自分で調べるしかない、という単純な動機、結局これがそれ以後現在に至るまでのわたしの人生を貫く唯一の原動力となりました。

まずは「ナマンダブ」、「アミダサマ」は、どうも日本語ではなく、梵語とか巴里語を中国人が、意味を訳さずに、発音を漢字で写したものであり、日本人はそれをそのまま音読みしているだけであることがわかりました。だったら、どうしたら意味がわかるかは、自明のことでした。英語で何かわからないことがあれば、文法書と辞書で調べるのと、まったく同じことでした。しかし当時は、梵語すなわちサンスクリット語に関しては、容易に入手できる辞書・文法書がありませんでした。幸いなことに、巴里語すなわちパーリ語は、手ごろな文法書も辞書も出版されていることがわかりました。でも高校の図書館は言うに及ばず、地方の図書館にもなく、やむなく取り寄せることにしました。それが水野弘元『パーリ語文法(補訂版)』(1959年)と雲井照善『巴和小辞典』(1961年)でした。この2冊をまったく独学でかじってみると、誰も説明してくれなかった「ナマンダブ」、「アミダサマ」の意味がわかりました。この発見はわたしにとっては一大事であり、その後のわたしの人生を決定付けました。それからの道のりは、幾ばくかの紆余屈曲はありましたが、ぶれることなく一直線でした。よく仏教には八万四千の法門があると言われますが、仏典は驚くべき膨大な叢書であり、パーリ語、サンスクリット語の原典に加えて、中国語訳、チベット語訳、モンゴル語訳などもありますから、全体像を掴むのには、予想以上に時間がかかりました。日本、フランス、インド、ブータンで、ほぼ六十年にわたって没頭してきましたが、充実した楽しい時間でした。

この長い探究の末たどり着いた結論は、紀元前五世紀のインド人思想家ブッダが説いたのは、幸福のレシピであるの一言です。詳しくは来月20日刊行の『ブッダが説いた幸福な生き方』(岩波新書)お読みくだされば幸いです。 お元気で。

2016年3月3日に植樹された滝桜の苗木の横には、「外交関係30周年記念」のプレートが設置されて、三春町とブータンの友好関係についての説明も