ニュースリリース

今枝 由郎先生ブータン滞在記

今枝 由郎先生(チベット学者、元フランス国立科学研究センター主任研究員)が、ブータンに滞在されていた折の滞在記を掲載しました。(日時順)

12月7日(日曜日)
昨日の日中は快晴で雲一つない天気でした。そのまま夜になり、きれいな満月が見えました。谷の両側(ことに東側)の傾斜がかなり急なため、月が山の稜線の上に出るのはかなり遅く、沈むのも早くなります。(これは太陽も同じです)空気が希薄で、湿度がかなり低いせいか、標高2400メートルのティンプから眺めても、月は一段と高く、キリッと締まって小さく見えました。
私が今まで見た満月で一番印象に残っているのは、ここブータンのリンシ・ゾンの近くで眺めたものでした。1980年代に滞在中、1度だけ短いトレッキングに出かけました。パロのドゥゲ・ゾン(2570メートル)から出発して、聖山ジョモラリ(7314メートル)を左手に見ながら北上し、2泊3日の行程でティンプまで戻る短いものです。ジョンゴタン(4080メートル)で1泊し、翌日4870メートルのニィレ・ラ峠を越え、リンシ(4200メートル)に着きました。ここまでが登りで、リンシからティンプは下りです。下りが楽という日本での常識は、傾斜が急なブータンでは全く逆で、下りの方がずっと辛く、殊に膝にこたえます。しかもリンシからティンプはかなり長い行程ですから、リンシでは月を眺める余裕もなく、早めに就眠しました。
夜半に目が覚めてテントから出たときです。すぐ目の前から稜線まで、青白く、長く続く氷河に圧倒されました。前日夕方着いて、テントを張り、夕食をする間にはまったく気が付かなかったので、びっくりしました。満月に気が付いたのも、その時です。辺りは静まり返っていて物音一つ聞こえず、冷え切っており身体が縮みました。満月ですが、夜空には、これも今まで気が付かなかったのですが、何と多くの星が散らばっていることか。この時、この異様な雰囲気で感じたのは、畏怖であり神々しさでした。これは、自分でも説明ができませんが、もっとも素直で自然な感情でした。この厳粛さの中に立つと、その荘厳さに圧倒され、自分という存在など哀れな程小さく、取るに足りないものでしかないことが、ひしひしと感じられました。ブータンで、あるいは自分の今までの人生で、最も印象的な夜でした。
後になって、これに似た経験を語る人がいることを発見しました。一人はラフカディオ・ハーン(日本名小泉八雲。1850-1904)です。彼は明治期に日本を訪れた外国人の中では例外的に、一神教の世界の人ではなく、母親の影響でギリシャ的多神教の感性を持ち合わせた人でした。その彼が、外国人として初めて、日本最古の神社といわれる杵築【きづき】神社〔1871年(明治4年)に出雲大社と改称される前の古称〕に参拝を許されたときの印象を、こう記しています。
「この大気そのものの中に何かが在るーーうっすらと霞む山並みや妖しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいものが感じられるーーこれが神道の感覚というものだろうか」
「何かが在る」のであって、「神」「主」と名指しできるものではないのです。それでいて、それはまぎれもなく「何か神々しい」のです。
ブータンとは全く異なる日本の自然の中でですが、私が感じたものと彼が感じたものとは、通じ合うと思います。
もう一人思い出すのは、西行法師(1118ー1190)です。彼は、出雲大社とならぶもう一つの代表的な神社である伊勢神宮の内宮に参った時に、こう詠んでいます。
「なにごとのおはしますかは知らねども 忝【かたじけな】さに涙こぼるる」
これが自分を超越するものを感じたときの、人間の自然な感情なのでしょう。
こうした感情を最も的確に表現したのは本居宣長(1730-1801) で、彼は『古事記伝』の中で、神をこう定義しています。
「世の常ならず、すぐれたる徳【こと】のありて可畏【かしこ】きもの」
人間は、自分の営みの次元を越えたものに、畏れの感情を抱くもので、それを自然の中に見出したことは確かです。その感情があるということは、人間が自分の本来の次元をわきまえていることで、健全だと思います。それが、都市化とともに薄れてしまった、なくなってしまったのが現代で、不健全と言えるのではないでしょうか。

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12月6日(土曜日)
昨日の新聞の1面に、中央ブータンのチュメー谷のゲツァに、現時点で22羽のオグロヅルが飛来しているとの記事が載っていました。1978年までは数多く飛来していたとのことですが、その後、おそらく開発事業が進んだせいで、毎冬5、6羽しか飛来して来なくなったのが、今年になって急増し、1月までにはもっと多くが飛来するであろうとのことです。この急増の理由はわかりませんが、開発事業も一段落し、鶴たちも従来の越冬地以外で、開発が進んでいないところで、充分に越冬できることわかったからであろうと推察できます。現時点では保護対策は一切行われていませんが、送電線を取り除くとか、絶縁化したりすることが検討されています。
現在ブータンでオグロヅルの越冬地として最も知られているのは、東北端のブムデリン谷と中央ブータンのブラック・マウンテン山中のポプジカ谷です。私は1992年の秋に、NHKテレビの取材班に同行してブムデリン谷に行ったことがあります。当時は車道が通じておらず、タシヤンツェから1日かけて歩いたことを思い出します。まだ電気もなかったブムデリン谷は、まさにブータンの奥庭で、秘境中の秘境でした。この取材期間中一番驚いたのは、村人の一人が、「明日飛来するだろう」と言って、その翌日の朝、ヒマラヤの峯を眺めながら「7羽飛んで来る」と確言したことでした。カメラマンは、一番大きな望遠レンズ構えて撮影にかかったのですが、昼過ぎまで何も見えませんでした。取材班は、からかわれているのだろうと思い、諦めました。ところが、夕方になると、まさに7羽が降り立ちました。カメラマンは信じられないといった様子で、降り立つオグロヅルを必死でカメラに捉えました。 ブータン人の視力は、一般人の標準で計り知れないものがあります。国技である球技では、射手から的までの距離は140メートルで、横30センチ、縦1メートル程の的は、普通の目にはほとんど見えず、ましてやその中央に描いてある円など、狙いようにも狙えません。それを見事に射るわけですから、驚くべきです。
ブムデリン谷からの帰路、中央ブータンのブムタンでチュメー谷を通過したおりです。私の恩師の兄ギャムツォラ氏に鶴に関する伝説等を聞きました。彼の話では、かつてはチュメー谷にも鶴が越冬に来ていたが、近年はほとんど見かけなくなった、とのことでした。それでもかれは、「またきっとやって来るようになる」と締めくくりました。
1993年2月にこの番組が放映された時、何人かの視聴者から、どうしてそんなことが確言できるのか、NHKのやらせ、誘導尋問ではないか、との抗議が寄せられたとのことです。はっきり言えるのは、そうした事実は全くなかったことです。ギャムツォラ氏が、自身の希望的観測を述べたのか、何らかの確信があってそう言ったのかはわかりませんが、番組は、彼自分が述べたことを、そのまま伝えただけで、NHK側の操作は一切ありませんでした。
それから25年、奇しくも彼の言葉通り、オグロヅルが多数戻ってきました。

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12月5日(金曜日)
先日来国会が開かれており、それが毎日テレビ中継されていますので、時々友人たちと一緒に眺めています。ブータン建築の粋を尽くした国会議事堂のなかで、全議員がブータンの民族衣装であるゴ(男)、キラ(女)を着用し、国語であるゾンカ語で審議している姿は、まさにブータンの国会です。私には審議のすべてはとても理解できませんが、友人が補足説明してくれますので、議題、審議の大筋はわかります。
面白いのは、発言する議員がスクリーンに映ると、友人たちはその出身地、経歴、家柄などを説明してくれることです。ブータンは人口70万人程で、日本で言えばちょっとした地方都市規模の小さな国です。国会議員も47名と少数ですから、国民の一人ひとりからすれば覚えやすいということもあるでしょうし、顔見知りもいるからでしょう。
一番興味深いのは、あの議員はゾンカ語が下手、間違っている、といった言葉に関する友人たちのコメントです。その背景には、ブータンの言語事情があります。ブータンは小さな国ですが、多民族・多言語国家です。その内ゾンカ語を母国語として話すブータン人は、主に西ブータンに住む一部の人だけで、全人口からすれば15ー20%程度にしか過ぎません。残りのブータン人は中央ブータンのブムタンカ語、東ブータンのツァンラカ語(=シャルチョプカ語。この言語を話す人が、最も多いでしょう)、南ブータンンのネパール語をはじめとする20近くの言語を母国語としています。かれらが絶対多数なのに、少数派のゾンカ語が国語と認定され、学校でも教えられているのは、ゾンカ語が古典チベット語に近く、書き言葉として適しているからです。(もちろんネパール語は書き言葉として機能していて、かつてはゾンカ語、英語と並んでブータンの公用語の一つとして認められていましたが、政治的・文化的理由から、現在では公用語ではなくなりました) こうした背景から、国会議員の多くにとって、ゾンカ語は母国語ではなく、国語の教科として学校で習った、公の場で強制される言語として習得した、という性格のものです。昨年の総選挙の時に、地方の選挙区では演説、討議がゾンカ語でされなかったり、ゾンカ語での質問がわからず、答えられなかった候補者がいたこともあり、それが新聞等で問題になりました。
国会議員の多くにとって、審議言語であるゾンカ語が母国語ではないからでしょうが、審議がどことなく単調なのを物足りなく思っています。一番眼につくのは、多くの議員がメモ、というより資料を手に、それを眺めながら話すことです。中には数分に及んで資料を棒読みするだけという議員もいます。しかし何よりも残念なのは、表現の乏しさです。たしかに事柄は審議されていますが、まさに機械的・手続き的な審議に留まっています。私が見た範囲で、古典的な格言、日常会話に頻出することわざを引用した人は誰一人としていません。言語的観点からは、あまりにも貧弱な国会審議です。
さらに驚いたのは、ある条例に関して「ゾンカ語版が、英語版とは異なった内容になっている」との指摘があったことです。具体的な詳細はわかりませんが、この指摘からすると、条例はまず英語で作成され、それがゾンカ語に訳されと推測されます。おそらくはこれが実情で、法文作成の事務方は英語で作業しており、その後でゾンカ語版が用意されているのでしょう。実質的な、技術的な討議、書類作成の実務はほとんどが英語でなされ、記録用にゾンカ語版が用意される、というのがブータン中央政府の現実でしょう。つまり、ゾンカ語は話し言葉としては国語として機能しても、書き言葉としては実質上国語として機能していないということです。
一般の生活でもその通りです。政府系クンセル紙の場合、ほとんどの紙面は英語で、ゾンカ語頁はかろうじて2ー3頁あるだけです。新聞は数紙ありますが、ほとんどは英字新聞です。ゾンカ語の民間出版物は皆無に近く、ブータン人の多くは英語で出版します。政府機関内でのほとんどの実務的書類は英語で作成されているのが現状です。先日も、私が関わっているゾンカ語開発委員会から内国総理大臣宛のメモも、英語であったことがそれを端的に傍証しています。
逆に話し言葉の世界では、ゾンカ語は確実に活きていますし、機能しています。しかし、ティンプの町中でも東ブータンンのツァンラカ語はゾンカ語と互角に話されていますし、英語は問題なく通用します。ゾンカ語が独壇場といえるのは、映画とポップの世界です。この2分野が最も活気があり、ゾンカ語の維持・発展にもっとも貢献しています。
こうした現状は、言語的観点からはけっして健全とは言えません。ゾンカ語が話し言葉だけでなく書き言葉としても国語として十全に機能するためには、国民意識、教育制度をはじめとする抜本的な改革が必要でしょう。それなくして、現在ブータンが誇りとし、外部から評価されている独自の文化的アイデンティティは維持できないでしょう。
観光キャンペーンですが、「日本に京都があって、よかった」という表現があります。二十一世紀の冒頭にあって、「世界にブータンがあって、よかった」と多くの人が思うところがあります。50年後、百年後、この言葉に世界的な説得力があるでしょうか?そうあって欲しい、と願いますが、はたしてどうでしょう?

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12月4日(木曜日)
コンピュータといえば、私が最初に購入したのは1986年末で、当時売り出されたばかりのアップル・マッキントッシュの第一世代の機種でした。ハードディスクのような大容量のメモリーはなく、400Kの片面フロッピーディスクを挿入しては取り出して操作するという、現在からすれば子供のおもちゃ程度のものでしたが、それでもまさに画期的なもので、その後のコンピュータの流れを変えたものでした。以後、マッキントッシュは飛躍的に進化し続け、私の研究活動には一貫して不可欠のものです。
研究分野は、よく文系、理系という2系列に分けられ、私が従事している分野は、文系の典型です。しかし私は子供の頃から、むしろ理系的な分野に憧れていました。高校は、名古屋に新設された全国で最初の電子工学科に入りたかったのですが、これは父親が許してくれず、やむなくいわゆる進学校に進みました。
そこでは一変して、国文学に興味を覚えました。その中で最も印象深かったのは、日本の和歌の集大成であり、その検索のための索引である『国歌大観』(本文篇と索引篇の2冊)との出会いでした。これにより、すべての和歌が、『万葉集』以後のどの国書に収録されているかが、たちどころに知ることできました。国文学史は、この刊行(初版1901ー1903年)により前後に区分できるといっても過言ではない、と言われる程、画期的なものです。
しかしながら、『国歌大観』の索引は完璧ではありません。和歌は五七五七七の三十一文字で構成されますが、この索引は五七五七七の冒頭の言葉でしか引けません。たとえば、よく知られた菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」の場合、検索できるのは「東風」「匂ひ」「梅の花」「主」「春」だけで、こうした言葉に続く「吹かば」「おこせよ」「なしとて」「忘るな」は検索できません。これはやはり不完全としか言えないでしょう。
もどかしさを感じながらも、どうしたものかと考えていて出会ったのが、イタリアの古典『神曲』の索引でした。1970年に留学先のパリからイタリアのミラノを訪れた時、イBMが「理系」のコンピュータの「文系」分野での活用例として発表したものです。この索引により、『神曲」』中の言葉は、一字一句、一文字まで、一つ残らず完全に検索できるようになり、イタリア文学研究に新時代を開きました。その後は、全ギリシャ古典に対して同様なデータベースができ、研究が飛躍しました。
他の言語での文学研究分野でのそうしたすばらしい研究工具を羨ましく思いつつも、私自身が従事しているチベット文学の分野で、そうしたコンピュータによる研究工具が開発されないのを長い間もどかしく思っていました。ブータンでマッキントッシュ向けのチベット語・ゾンカ語OSの開発に着手したのには、この伏線があったわけです。それが開発されれば、マッキントッシュの持つ機能が、チベット語・ゾンカ語文献研究にも利用できるようになり、この分野も、他言語の研究と同じ立場に並べる、というのが夢でした。
夢は道半ばとはいえ、コンピュータによる文献のデータベース化により、チベット語文献・文学の研究は飛躍的に進みつつあります。すべてが手作業と自分の記憶力によっていた時代に研究分野に関わった私にとって、この半世紀の間の飛躍は信じられない程のもので、技術的にはまさにユートピアの出現と言えます。それを、今ブータンで感慨深く振り返っています。

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12月3日(水曜日)
実は先週の金曜日の古典チベット語の授業に、ブータンを代表する新聞「クンセル」の記者が取材に来ました。そのレポートが、「ブータン人が、日本人から古典語チョケーを習う」と題して、今日の朝刊の8頁全面に掲載されました。生徒たちの動機、反応がよく伝わるいい記事です。英文ですが、興味のある方は下記のサイトをご覧になって下さい。

http://www.kuenselonline.com/search/imaeda/

ちなみに、取材に来た記者ギェルツェン・ドルジェは、以前のクンセル紙の編集長で、私の親友であった故リンジン・ドルジェ氏の長男です。1980年代の後半に、彼から、当時手動タイプライター、カーポン紙、糊、挟みで用意していた紙面を、近代化できないかとの相談を受けました。私は、ブータンのように複数文字を扱う国情には、マルチ・スクリプトといって複数文字処理能力を持つコンピュータしか適さず、当時の市場で入手できるのはアップル社のマッキントッシュだけである旨を進言しました。それに対して、彼は私に一任するから、開発して欲しいと言ってきました。それで私は、パリにいるフランス人の親友の友人で、アップルコンピュータ・ヨーロッパ社の社長に依頼して、マッキントッシュのアラビア語版・ヘブライ語版の開発者であるスティヴン・ハートウエルに紹介してもらい、彼と共同でチベット語・ゾンカ語版の開発に着手しました。極めて優秀なプログラマーであるハートウエル氏は、アラビア語版・ヘブライ語版開発の経験を活かして、チベット語・ゾンカ語版のプロトタイプを単独で、わずか6ヵ月で見事に開発してくれました。もちろんその後、フォントの開発とか様々な作業がありましたが、現在でも基本構想は彼が築き上げたものです。
チベット語・ゾンカ語版の市場は皆無に近く、アップル社は商業的には販売・配布していません。しかしながら、現在でもアップルのすべての製品ーーマッッキントッシュ、 iPad, iPhoneーーにチベット語・ゾンカ語版が搭載されているのは、1980年代後半からの諸々の要素を考慮しての、アップル社の好意的な計らいです。それによって、チベット語・ゾンカ語を用いる人たちが、どれだけの恩恵を被っているかは計り知れません。
今改めて、このプロジェクトの開始に関われたことを懐かしく思い出すとともに、喜んでいます。

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12月3日(水曜日)
ドゥクパ・キンレーといえば、西ブータン各地の女性との間の様々な逸話で有名ですが、ブータン人はもともと性的な風習におおらかな面があります。ですから、ピューリタン的な性倫理を持つ人たちからすれば、「乱れている」「堕落している」と見なされるでしょうが、私はけっしてそうとは思いません。この点に関していえば、フランス人とブータン人は共通する側面があるでしょう。そして、むしろピューリタン的な人たちの方が、表向きと本音との間の隔離が大きく、ややもすれば偽善的な面が多いというのが、私の個人的な意見です。
いずれにせよ、ブータンの日常生活では、性にまつわることが笑い話としてよく話題に登ります。そんな中で、最近聞いた話で、こんなのがあります。『論語』に倣った作り話でしょうが、傑作です。大方の日本人からは顰蹙を買うでしょうが、ブータン人気質の一端として、敢えて紹介します。

ある日、弟子の一人が師に訊ねた。
「師よ、世の中では、多くの男性と交わる女性は悪く見られ、逆に多くの女性と交わる男性は、羨ましがられはしても、悪くは見なされません。これはどういうことでしょう」
しばらくの沈黙のあと、師が答えた。
「女と男は、南京錠と鍵のような一対のものである。対でこそあれ、全く異なったものであり、各々に機能がある。そこでである。ここに一つの南京錠があり、それがどの鍵でも開いてしまうとしたら、それはすぐれた錠前といえるかどうか?」 弟子が答えた。
「その南京錠は、機能を果たさず、けっしていいものではありません」
師が続けた。
「では逆に、ここに一つの鍵があり、それでもってどんな南京錠でも開けられるとしたら、どうか?」
弟子が答えた。
「その鍵は優れものです」
そこで師宣わく
「男女の交わりに関する男と女の評価も、それと同じである」

これは全くの作り話でしょうが、もう一つは仏教的な文脈で語られることで、全くの作り話ではなく、日本にも知られているジャータカ(本生譚)のブータン的解釈というか翻案でしょう。
このジャータカは「捨身飼虎」と呼ばれるもので、釈迦牟尼仏が前世で王子として生まれた時、7匹の子虎を連れて餓死の危機に瀕していた虎に、自らの身を捨てて彼らの命を救った、というもので、法隆寺の玉虫厨子に描かれていることで有名です。
「捨身飼虎」はチベット語では「 タクモ・リュジン」で「母虎(タクモ)に身(リュ)を供する(ジン)」と言う意味です。この表現の後半部を借りて「リュジン・カンジョ」という言葉が使われています。カンジョは一般に尊格に仕える男性・女性の付き人的マイナーな神々を指しますが、この言葉の場合は女性に限られています。直訳すれば「供身仕女」といったところで、日本の風俗的文脈に当てはめれば「娼婦、売春婦」でしょう。しかし、ブータンにはいわゆる風俗店、風俗業はありませんから、「リュジン・カンジョ」も、金銭の授受を前提に、それで生計を立てている女性たちではありません。また、ニンフォマンすなわち色情狂ではなく、ただ不特定多数の男性の求めに応じる女性たちというだけです。例外的で、マージナルな存在ですが、ブータン社会では一概に見下されたり、非難されない側面があります。これは、男性側の自分勝手な、自分たちにとって都合のいい解釈なのかもしれません。面白いのは、釈迦牟尼仏の本生譚に現れ、菩薩の利他的行為を指している「リュジン(捨身、供身)」という言葉が、この文脈で用いられていることで、仏教国ブータンならではのことです。かといって、ブータン社会が、「供身仕女」たちの行為を崇高な「菩薩行」と見なしているわけではけっしてありません。しかし、一概に排斥しない、寛容な面があることも確かです。

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12月1日(月曜日)
昨日からプナカの谷に来た本当の目的は、ドゥクパ・キンレーという聖人の、チベット・ブータン仏教史上最初のトンドル(刺繍とアップリケによる軸装大仏画)のご開帳を見ることでした。
今泊まっているホテルのすぐ近くに小高い丘があり、そこにチメ・ラカンという小さなお堂が建っています。このお堂は、ブータン中世の最も有名な僧侶であり、現在でも最もよく知られ、人気のあるドゥクパ・キンレー(1455-1529)の創建にかかるものです。「子授け」のお堂として知られ、ブータン各地から、さらには外国からも、祈願に訪れる人が絶えません。寺宝であるドゥクパ・キンレーゆかりの男根を頭に頂いた女性には、必ず子宝が授かると信じられており、実際にそうなった例に事欠きません。ブータンでは珍しい「願掛け堂」です。今回のトンドルの寄進者の一人であり、法要の準備がかりの一人も、キンレーというブータン政府の高官です。彼は、両親が3人の子供を続けて失ったあと、母親がドゥクパ・キンレーを夢に見、チメ・ラカン堂にお参りして、無事産まれて、恙無く育った子供です。
ドゥクパ・キンレーは、ドゥク派を創設したギャ氏の出身ですが、近親の僧侶とは馴染まず、立派な寺院に安住することなく、各地を一人で放浪し修行しました。ことに性的な諧謔で知られ、訪れた西ブータン各地の女性との間の様々な逸話が今に至るまで語り継がれています。しかし民衆は、形骸化した教団仏教、偽善的な世の僧侶たちを侮り、自由奔放に生きた風狂聖の行動の内に、仏教本来の教えがあることを敏感に感じ取っていました。
「世の僧侶階級は
はじめは清貧聖者にして
やがては生臭坊主となり
ついには布施を貪り求め
六堂伽藍を競い合う」
と言って、自らの出自である氏族教団を鋭く風刺したドゥクパ・キンレーを、民衆は満腔の賛意をもって迎え入れたことと思います。
それゆえに、
「世の聖たちが欣求するは仏性
風狂キンレーが欣求するは女性」
と言い切って、各地で複数の女性と交わりを持ったところで、顰蹙を買うことはありませんでした。それどころか、一般のブータン人は、自分らのように迷いの世界にさまよっている者たちには理解できない、それゆえにその是非を判断できない、判断すべきではないこととして受け止め、むしろドゥクパ・キンレーに親しみを覚え、崇拝しました。
いずれにせよ、このお堂にドゥクパ・キンレーを主尊とするトンドルが奉納され、それが今日お披露目のご開帳となりました。プナカ・ゾンで冬期を過ごしている中央僧院のジェ・ケンポ(大僧正)もお出ましになり、法要が営まれました。
数日前のことですが、このトンドルがお堂に到着すると、谷を跨ぐように大きな虹がかかりました。しばらくすると、その一端がお堂の金色の屋根に届き、さらにそこからトンドルに届きました。この奇瑞は、居合わせた者全員が目にしたとのことです。
この話が広まったからか、トンドルご開帳の今日は、谷全体が実質上の休日となり、朝早くから恐らく万を越える老若男女が数多く参拝に集まりました。普通と異なるのは、圧倒的に女性、しかも乳飲み子をおぶったり、抱えたりした女性が多かったことです。棚田を見下ろす小高い丘は、近隣から集まった着飾った男女に埋め尽くされ、普段はのどかな田園風景がひときわ華やぎました。ティンプとはまったく異なる次元ですし、時の流れです。

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11月30日(日)
季節移動した中央僧院に倣ってではありませんが、今日は温暖なプナカの谷に来ています。まさにティンプの避寒地で、季節移動がいかに理にかなったものか実感できます。ことに、電気がなく、暖を採ることが今程簡単ではなかった時代はなおさらそうです。プナカは、温帯というよりは、亜熱帯で、米も二毛作が可能ですし、バナナなども採れる気候ですから、この季節でも日中は汗ばむ位です。
友人がこの谷に新たにホテルを開きましたので、その下見も兼ねています。幹線道路脇で便利ですし、谷一帯に広がる水田を見渡せるいい場所に建っています。経営は母娘の2世代にわたる女性たちが主役で、ガーデニングに熱心ですから、数年もしたらきれいな庭になることでしょう。また、彼女たちは有機農業に関心が高く、ホテルの敷地の一角を菜園に当て、ホテルでの食事には、出来るだけそこで採れた新鮮な野菜を提供しようと試みています。ですから、私はそれに賛同・協賛する意味で、フランスから有機農業で採れた野菜の種を提供し、インゲン、レタス、ラディッシュなど幾種類か試しています。既に幾種類かは収穫できましたが、なかでもインゲンは収穫量も多く、美味しさも抜群とのことです。私個人的には、レモンの苗木を2本植えてもらい、来年から本当のレモンが入手できるのが楽しみです。
すこし関心を持って注意して見ると、ブータンではその土地ごとに、本当に変化に富んだ果物、作物があります。今回の最も新鮮な発見は、アボカドの原生種です。アボカドは、世界的にほとんどアボカドの名前で知られています。ということは、ほとんどの地域では、自生のものではなく、外来種として知られるようになったことを物語っているでしょう。ところがブータンでは、「グリ」と呼ばれていて、小さなものから、瓢箪のように大きなものまで様々ですが、味はまさにアボカドです。
他にも、たとえばアスパラガスがそうで、ブータン名は「ニャカチュ」です。これも原生種が自生していたとのことですが、おそらく収穫量が少ないという理由で、いまでは外来の改良種が主流です。でも、気候・土壌が適しているからでしょう、ブータンのアスパラガスはとても美味です。
あと驚くのは、ゼンマイとワラビです。これはいたるところに自生していて、1年のうちかなり長い期間にわたって市場に出回り、値段も手頃です。ただしゼンマイだけで、ワラビはブータンでは食用には供さないとのことです。知人の日本人が、自分で採集して、自分で調理してみたところ、まさにワラビそのもので、美味しくいただけるとのことです。今のところ、この自然で豊富なワラビを加工して、日本に輸出しようと考えている人はいないみたいです。でも、自分たちは伝統的に見向きもしなかった松茸が、日本人の大好物だとわかり、その輸出が一躍大きな現金収入源となったように、いつかワラビに眼を付けて、輸出を試みるブータン人が出て来ないとも限りません。あるいは逆に、目ざとい日本人が眼を付けて、ブータンから輸入するようになる可能性の方が高いかも知れません。

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11月29日(土曜日)
土曜日の朝はいつものように野菜市場に買い物に出かけます。常設になったとはいえ、一番活気があり、品揃えがいいのは週末です。
私は今回原則として、朝食は宿の女将さんが作ってくれるお粥をいただき、昼食は宿の1階にある、ウゲン・ナムゲルが経営するレストランで、彼をはじめとする友人たちと一緒します。夕食は友人に誘われたり、逆に私が招いたりしますが、いずれにせよ外食ですから、自分で調理するのは、週1、2度だけで、それもスープのような簡単なものを1品作るだけです。ですから、市場で買うものは、毎日の果物と少しばかりの野菜だけです。
今日の午前中は、友人の姪で看護師のリンチェン・チョデンが、自分の一番の好物であるタルト・オ・シトロンを焼きに来ました。ところが本当のレモンはブータンでは入手が困難ですし、野生種でフンパと呼ばれる果物は、ほとんど果汁がないので、今回はすべてライム(インド・ブータンではリンブタルトですることにしました。ライムは豊富にあり、レモンに比べれば酸味が少なく、甘ったるいのですが、果汁は多く、問題ありません。実際に焼き上がったものを口にすると、確かにレモンに比べれば甘くて、物足りない気もしますが、ブータン人の味覚に合うことは確かです。
デザートは彼女が用意しましたので、私が前菜に野菜スープ(ジャガイモ、ニンジン、タマネギ(ブータンはすべて紫色の品種)、舞茸に似たキノコ、インゲンの一種)、メインディッシュにグラタン(カリフラワーとベーコン)を用意しました。その後にブリ(カマンベールに似たフランスのチーズの一種。缶詰で、ここで友人からの貰い物)とサラダ、そしてリンブ・タルトとパパイアで、れっきとしたフルコースになりました)
そこでリンチェン・チョデンが、叔父のギュルメ・ワンチュクを招きたいというので、3人で昼食をしました。色々話しているうちに、リンチェンがブータンの伝統的な機織りであるパンタ(後帯三角機)が織れることを知り、驚きました。自分が着るキラ(女性の民族衣装)はすべて自分で織ったものであり、アルバイトに友人のキラ、あるいはゴ(男性の民族服)も織るとのこと。彼女はパンタで有名な東ブータン北部のルンツィの出身ですから、織れても不思議ではないのですが、普通子供の頃から機織りを覚える女の子は、15歳くらいで一人前の織り手になります。そうするといわゆる「手に職を持った」ことになり、男性から嘱望されることになります。というのは、彼女らが機織りで得る収入は、普通の国家公務員の給料を遥かに凌ぎ、時としては数倍になるからです。
そうした中で、彼女は看護師になるために、インドに留学し、3年近く滞在して資格を得て、今年になってブータンに戻り、7月からティンプの中央病院に勤務することになりました。非常に例外的なキャリアだといえます。その上に、古典チベット語を学習したくて、私の受講生となったというのは、極めて希有なことです。さらには、もう1度インドに戻って、さらに高度な看護の勉強をしたいとのことです。「日本人離れ」という言葉に倣えば、彼女はまさに「ブータン人離れ」しており、意欲的で、着実に新しいことを身につけていくしたたかさ、というか能力を備えています。
飛躍になるでしょうが、考えてみると、ブータンを築き上げてきたのは、こうした例外的な人たちだったと言えるでしょう。大半のブータン人は、恵まれた環境の中で、ほぼ何も考えることなく「GNH」(国民総幸福)的人生を満喫・享受していますが、それを支えているのは、ごく少数ながら、第四代国王のような突出した、希有な人たちです。国全体として見た場合、それでいいのかも知れませこうした形でん。
かつて第四代国王は、私に「国にとって唯一大切なことは、国民が幸せであることである」と言われました。また、私の友人で、国王に親しい一人から、ある時第四代国王が、「お前らは、国王である私のことを羨ましがっているだろうが、国王という身分は、お前らが思っている程、いいものではない」とおっしゃった、ということを聞いたことがあります。また別の機会に、第四代国王は半ば諦め顔に、冗談めかして「私の国民は、けっして勤勉でも、努力家ではない」と言われました。国王が、自分の国民を非難などけっしてできない中で、こうした言葉が出たということは、国王として生まれた自分が国民のためにしている並外れた努力に比して、国民側の意識、努力のレベルへのもどかしさを感じました。
ブータンは、何時までこうした形で「GNH」(国民総幸福)の国であり得るのでしょうか?

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11月28日(金曜日)
いつものように朝の散歩に出かけると、隣りの新築のビルの脇から白煙が立ち上っています。かつては、朝の早い時間の煙には、二種類ありました。
一つは薪の煙です。しかし電気炊飯器、プロパンガス(ブータンにはまだ都市ガスはありません)が普及したティンプの市街地では、今となっては薪で料理する人はほぼ皆無でしょう。
もう一種類が、今朝の白煙で、 松などの香りのいい木の葉っぱを燃して、天上の神々に捧げるサンというものです。
この5階建ての新しいビルには、レストラン、旅行会社、衣料店、IT関連企業といった様々なテナントが入っています。ちなみに、このビルのオーナーは私の知人で、退職後の生活費確保のために建てたとのことです。設計者はブータン人と結婚し、ブータンに定住している、ブータン唯一の日本人建築家です。ブータン様式を残しつつも、すっきりとして、モダンな感じのビルです。オーナーは、確かにいいが、高くついたとぼやいています。ブータンでは、建築家への報酬は、総建設費用の1ー2%が相場とのことですが、この建築家の場合は3%で、「ブータンで一番高い建築家」と称されているとのこと。それだけ、様々な面で質が高いという評価の反映なのでしょうか。
少し立ち止まって見ていると、建物の中から読経の声が聞こえてきました。中に入って眺めて見ると、数名の僧侶が法要を営んでいて、新たにオープンする子どもの玩具屋の開店のためのものです。外でサンを炊いていたのは、新しい店のオーナー夫妻で、彼らは偶然にも私の旧知でした。
数日前に中央僧院はティンプを後にしてプナカに移っています。ですから、僧侶という点からすれば、ティンプは空っぽのはずです。ですから気になって、僧侶の一人に、どこのお寺から来たのか、と聞くと、ティンプの少し南の寺からとのことでした。ブータンには国教であるドゥク派の僧院、言ってみれば官寺と並んで、宗派の異なる数多くの私寺があり、僧侶の数からすれば互角位でしょう。各宗派の関係は微妙なものがありますが、対抗意識とか競争意識はなく、共存しています。ティンプのように冬の間、中央僧院の僧侶がいなくなると、様々な法要の多くは、冬も居残っている他の寺院の僧侶の出番となります。いってみれば、ティンプの私寺にとっては、冬が「掻き入れ時」ということでしょう。
散歩中も、いつもより多く、あちこちから読経の声が聞こえてきましたから、多分今日は暦上の日柄がいいのでしょう。ブータンでは、祝い事、店開き、旅行、結婚、工事など何をするにも日柄を選ぶ必要があります。日本でも、大安、仏滅といった日柄を考慮する風習がありますが、ブータンではそれが遥かに重要と見なされています。数年前、「黒年」といって、日柄ではなく、「年柄」が悪いとされた年があり、新築工事はほとんどありませんでした。では、工事がすべて止まってしまったかというと、けっしてそうではありませんでした。やはり対処策というか抜け穴があり、形式上の着工は、「黒年」の前の年の暮れに行うわけです。実質的には、本格的な工事が始まるのは「黒年」が始まってからですが、「黒年」の新築工事ではなく、前年の工事の延長ですから、縁起が悪いことはありません。
ブータン人は、非常にプラグマティックな民族です。

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11月27日(木曜日)
ここに来てから、平均してほぼ1日に1個はケーキを焼いたりしています。殊に、友人の姪で、看護師をしていて、古典チベット語の生徒でもある彼女が、ケーキ作りに非常に熱心で、、週に2回程は来て、自分で焼きたいと言いますので、それに付き合って色々と試みています。レパートリーは、タルト・オ・シトロン(英語ではレモンパイでしょう)、タルト・タタン(同じくアップサイドダウン・アップルパイ)、カーク(ケーキのフランス語読みで、英語ではドライフルーツ・ケーキでしょう)、ガトー・オ・ショコラ(チョコレート・ケーキ)、ムース・オ・ショコラ(チョコレート・ムース)、加えてキッシュ(貢は、ここの豚の干し肉、ほうれん草に近い青菜、舞茸に近いキノコ)です。
彼女は非常に飲み込みがよく、 チョコレートを使うものを除いては、すべて自分一人で出来るようになりました。面白いのは、試食する友人たちの反応です。
タルト・タタンは、全員美味しいと言います。これは私にとっては嬉しいことです。というのは、タルト・タタンのレシピは本当に千差万別で、私は私なりに独自の方法で焼いています。ですから、このレシピが認められたわけで、喜んでいます。
タルト・オ・シトロンは、皆美味しいとはいいますが、けっして好きな味ではないでしょう。よくわかったのは、ブータン人の味覚のレパートリーには酸味がなく、レモンの酸っぱさが今一つしっくりしないのでしょう。ただ一人の例外は看護師の彼女で、タルト・オ・シトロンが一番の好物です。ところが、本当のレモンはブータンでは採れないので、それに類したもので焼くより仕方ありません。一番近いのは、リンブ(ライム)で、これは豊富にありますから、これで焼いて見ると、確かに近い味ではありますが、私などには酸っぱさがなく、甘いだけで物足りません。でも、ブータン人はこの方が美味しいと言いますから、酷な評価も知れませんが「蓼喰ふ虫も好き好き」といったところでしょうか。
チョコレートは、ブータン人にはあまりなじみのないものです。チョコレートとして出回っているのは、カカオ含有量が少ない、甘ったるい菓子類です。ですから、カカオ含有量が70%以上の、ある意味では本当の、苦み効いたチョコレートは、今一つ評価されません。そこで、トウガラシを入れれば、きっと彼らの口に合うだろうと思いました。リンツのようなヨーロッパのれっきとしたチョコレート・メーカーもトウガラシ入りの板チョコを販売しているのだから、ブータン人に受けることは間違いないだろうと思ったわけです。ところが、意外や意外、トウガラシの味が残って嫌、というのがお方の評でした。
それとは全く逆なのがキッシュです。美味しいと言いつつ、食べるには食べますが、結局味がおとなしすぎて、物足りないのでしょう、ほとんどの人が生の青トウガラシに塩を付け、それをかじりながら、パクパク食べます。わたしは、やはり本来のままで味わって欲しいと思うのですが、強要するわけにも行きません。これがブータン人の味覚なのでしょう。日本人が、何にでも醤油をかける、と言われるのと、通じるものなのでしょう。 味覚にも、国民性があります。

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11月26日(水曜日)
昨日からの温度の推移ですが、6ー7時0℃、10時8℃、12時14℃、14時16℃、16時13℃、19時7℃、22時4℃、そして今朝5時は2℃、6時は3℃でした。すべて私のホテルの2階の部屋の北に面した窓際での観測値ですが、これが一般的な推移でしょう。建物の北側の日陰での最高温度は16℃でしたが、戸外の陽の当たるところでは、この数値から想像するよりもずっと暖かく、少し坂道を歩いたりすると、汗ばむくらいでした。不思議なことは、陽に向かっていると、顔、胸、お腹は暑く感じても、背中は寒く感じるという、日本ではない感覚です。標高が高く、空気が稀薄なことによるのか、湿度が低いことによるのか、理由はわかりませんが、他ではあまり経験しないことです。
いずれにせよ、これから波状的に寒くなり、1月が最も寒い時期です。また来年3月までの冬期はほとんど雨が降らず、快晴続きで、極度に乾燥して行きます。雨は、6、7、8、9月に集中しますが、けっしてじっとりとすることはなく、しかも多くが夜半に降り、夜明けには上がります。1980年代の10年間毎週末の午前中、露天の野菜市場に行きましたが、傘をさして買い物をした記憶は数度しかありません。
ニュージーランド出身で、世界のあちこちに住んだ経験のある女性が、彼女の知る限り、ティンプの気候は世界で最も快適な一つだと言っています。確かに、1年中ほぼ好天で、温度も夏でも一時的に30度を越える位ですし、冬も雪は1、2度しか降りませんし、極度に冷え込むこともありません。湿度はどちらかと言えば1年中乾燥気味で、じとっとした季節はありません。今まで、朝下着類を洗濯して部屋の中に干しても、その日のうちに乾かなかったことはほとんどありません。ホテルで朝出した洗濯物は、乾燥機にかけなくて、日干しですが、午後には必ず戻ってきます。

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11月25日(火曜日)
朝6時、2階の部屋の外の温度は0℃。今年一番の冷え込みです。昨日まで4ー8℃の間を推移していましたから、急に寒くなりました。中央僧院が季節移動でティンプを後にした、その空虚さの反映のようにも思われます。
ホテルの中庭に出ると、駐車してある車の屋根、フロントガラスには白く霜が降りています。第三代国王発願仏塔を周り、そこから上手に登り、市街地を見下ろす通りに出ます。そこから東を眺めると、日の出前で赤みを帯びていながらも、一段と青さを増した空を背景に、山の稜線がはっきりと見えます。凛と冷え込んだ空気に、身体が引き締まります。この辺りの路上に駐車してある車は真っ白で、朝早くに出かける人たちは、フロントガラスの霜掻きに余念がありません。
そこから下ってノルジン・ラムに出ると、清掃員が作業をしているだけで車は1台も通っていません。ここまで降りると、市街地でビルが多いということもあって空気も冷たくなく、駐車してある車にも霜は降りていません。昼間は交通整理の警官が立つロータリーにも車はもちろん、人っ子一人いません。
そこから少し登るとホテルですが、その真ん前に首都最大のホテルが建築中です。世界最大の高級ホテルチェーンの直接投資によるもので、来年春の開業を目指しています。ここは、他の工事現場に比べれば、ほぼ「突貫工事」並のスピードで事が運んでいて、24時間の警備体制が敷かれています。その警備員たちも、今日からは焚き火で暖を採っています。
部屋に戻ると7時15分。窓の外の温度は、相変わらず0℃のままです。それでも陽が昇り、陽射しを浴びた東の山肌には温もりが感じられます。今日も快晴の、典型的な冬の1日になりそうです。

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11月24日(月曜日)
林立するビル、スーパーマーケットまで出現した商店街、途絶えることのない車の流れ、日中の喧噪、雑踏、こうしたことからすると、現在の首都ティンプの外観上の姿は、1980年代からは想像できない変貌ぶりです。しかし、人々の内面的な部分では、全く変わっていない側面もあります。
私は朝6時から8時の間に1時間程、距離にして4キロメートル程散歩するの日課にしています。ホテルを出て右折し、坂道を登り詰めると第3代国王発願仏塔に至ります。ここはいつも右繞参拝する人が早朝から絶えません。それを右繞して、中央分離帯のある大通りを少し歩き、そこで左折して一段と急な坂道を登ります。息が切れそうになるのでゆっくりと登り、平坦な箇所に至ります。ティンプの市街を右下に眺めながら進むと、下ティンプ(ティンプは、中心部を山手から流れ落ちるチュバチュ川によって、上(北)と下(南)に二分されます)の守護尊を祀るチャンガンカ寺院が左手の崖の上に建っています。そこをさらに進んで、徐々に下り、目抜き通りであるノルジン・ラムの一番上のロータリーに出ます。そこからはノルジン・ラムを一直線に下り、ティンプで唯一交通整理の警官が立つロータリーまで下ります。この時間帯は、車もほとんどなく、当然のこととして警官も整理に当たっていません。そこを右折して、少し登ってホテルに戻ります。
この間、目抜き通りであるノルジン・ラムでも車に出くわすことはほとんどなく、ましてや他の道で出会うのは野良犬と、ゆっくりと歩いて行く人たちだけです。それもまばらで、その静けさ、のどけさは、1980年代と何ら変わりません。
ブータン人の多くは早起きで、ほとんどの人は5時くらいには起きているとのことです。しかし、街に人が出始めるのは8時台になってからで、通勤で街のいくつかの箇所で車の渋滞が見られるのは、9時前後です。
5時から8時までの3時間は、当然朝食、朝の身支度といったことに当てられるのでしょうが、他の国から見て、ことに日本から見て、おそらく想像できないのが、祈りに当てられる時間です。数年前の調査では、質問に応じた2894人が祈りに費やす平均時間は1日87分(都市部では72分、田舎部では91分と、すこしの差があります)です。加えて、閼伽水、燈明、サン(香木の葉を燃して、その白煙を天の神々に捧げること)といったことに費やされる時間が15分です。都市部であるティンプの場合、合計すると87分となり、朝の3時間の半分が祈りに費やされていることになります。
国家公務員も、サラリーマンも、警官も、生徒も、職業、年齢に関わらず、平均的に1時間半もの朝の時間を、祈りという、心の平安をもたらすための営みに費やしているわけです。1日の始まりに、全員がこうした内面的な営みを持つ社会、その社会の活動には、それがいかなる分野であり、やはり深いところで精神的な次元があると思います。

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11月23日(日曜日)
ブータンは、ことに首都ティンプは、1980年代から今にかけての30年程の間に、大きく変貌しました。世界で最も加速度的に拡張しつつある首都と称されるのも当たっているでしょう。
ティンプが首都として初めて整備されたのは、今から40年前の1974年の第四代国王戴冠式に合わせてでした。それまでのティンプは、中心部を南北に流れるワン川沿いに、数える程の民家が散在するだけでした。それを、ワン川の右岸を1.5キロメートル程にわたって南北に走る目抜き通り(現在のノルジン・ラム)を設け、その山の手側には純ブータン式の平屋、2階建ての商店兼住居を整然と建て、川側には柳並木が一直線に植えられました。私は1978年の秋に、アシ・ケサン・チョドン・ワンチュック陛下(第3代国王の王妃で、当時の皇太后、現太皇太后)の招待という形で初めてブータンを訪れましたが、この町並みを車で通り抜けた時、まぎれもなくブータンの首都に着いたと実感しました。当時のティンプには、この世の他のどこにもない、独特の雰囲気がありました。
30年程の間に、この慎ましやかで、整然とした伝統的なブータン家屋の町並みの魅力は、跡形もなく消え去りました。今では、外観だけはかろうじてブータン風を装った、4、5階建ての鉄筋コンクリートのビル群が、何の統一感もなく、雑然と、無秩序に林立しています。この町並みが、さらに南に伸び、今ではティンプは南北十数キロメートルに及ぶ、雑然とした首都です。しかも、急な斜面という地形から工事が難しく、きっちりとした都市計画がないまま急拡張しましたから、上下水道、車道、駐車場といったインフラに大きな問題があります。ことに車の台数が飛躍的に増えたために、時間帯によって、いくつかの箇所ではかなりな渋滞も見られます。地下駐車場、立体駐車場という設備がないので、ほとんどは路駐か、空地が駐車場になります。かつては無料でしたから、だれもが好きな場所に駐車し、飽和状態になりました。それを幾分かでも緩和するために、数年前から有料になり、少しは事情が改善されました。最初はすべてティンプ市が管轄していましたが、現在では区画ごとに民間の事業者に委託しています。おそらく世界に類を見ないユニークなのは、その料金徴収方式です。
係員があちこちに配置されていて、車が駐車すると、係員がその車に駆け寄り、駐車開始時刻を記した紙切れをワイパーに挟みます。そして、車が出る時に、係員が寄ってきて駐車時間を計算し、それに従って料金を徴収します。こう記せば、ごく普通に機能ていると思われますが、実は大きな「抜け穴」があります。それは、駐車場としての入口、出口がなく、車は公道上に駐車しているわけですから、そのまま公道を走り去って行きます。時として、2、3台がほぼ時を同じくして出る場合がありますが、係員は一台ごと車に駆け寄り料金を徴収する必要があります。当然のこととして、一台の車の処理をしている間に、他の車は料金を払わずに走り去ってしまう可能性があります。もちろん正直な運転手は係員が来るのを待って、精算をしますが、全員がそうとは限りません。一番面白いのは、係員は24時間体制で勤務しておらず、夜9時で終業します。ですから、日中駐車して、車を動かさず、夜9時以後に取りに行けば、長時間駐車にも関わらず、駐車料金は徴収されません。もちろん車の番号を控えておいて、後から駐車料金を請求するといった体制はありませんから、簡単に「食い逃げ」ならぬ「駐車逃げ」をすることができます。でも、そこまでして駐車料金を払わないでおこう、と考えるブータン人はほぼ皆無です。もちろん、何らかの理由で9時過ぎにしか車に戻れなくなる人もいるでしょうが、その場合は係員もいないことですから、駐車チケットは無視して、そのまま走り去ることになります。。
こうした「抜け穴」がある杜撰な体制とはいえ、それなりに機能しており、駐車料金収入はティンプ市のかなりな歳入となっています。

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11月22日(土曜日)
今日はブータン暦の10月1日で、当然のこととして新月の夜です。
日本人には、月の1日は新月、15日は満月という月の日付と月齢の関係がなくなって、既に1世紀以上経ちました。明治政府が、それまで全アジアに共通であった太陰太陽暦、すなわち太陽の運行と月齢との双方を考慮に入れた暦を棄て、太陽の運行だけによる太陽暦(グレゴリア暦)を採用したのが始まりです。以来アジアでは、日本だけが「列強」に倣ってグレゴリア暦を採用し、近代化・西洋化に成功したわけです。でも、それによって失ってしまった感性もあると思います。それをブータンいると否応なく感じます。
ブータンでは伝統的に、ブータン暦の10月から12月、そして年が改まって1月から3月までが冬で、4月から9月までが夏です。その区分を最も端的に表わしているのが季節移動です。例えば、隣接するプナカの谷とティンプの谷は一対で、この地域に住む人たちは、冬の住まいをプナカに構え、夏になり暑さが厳しくなると、家畜を連れて1、2日行程のティンプに季節移動します。そして冬になる、温暖なプナカに戻るというのが伝統的なパターンでした。中央政庁もそうで、1950年代までは夏と冬でティンプとプナカを季節移動していました。考えてみれば、季節により、気候により、快適な住環境を求めて住まいを変えるというのは、何と自然で、理に叶っており、今風の表現を借りればエコであり、時代を先取りしているともいえます。これは、ティンプ・プナカに限らず、ブータンの他の地域でも伝統的にそうでした。
ところが近代化とともに、この伝統的な生活パターンは徐々に薄れて行き、現在では一カ所に定住というのが一般的になり、ある意味では、世界の他の地域と同じパターンになりました。その典型が首都で、ブータンでは伝統的に、プナカが冬の首都、ティンプが夏の首都ということで、中央政府そのものが季節移動していました。ところが、1950年代の中頃にティンプが恒久首都と制定され、季節移動はなくなりました。2つの建物を維持する必要がなくなり、効率がよくなった面はあるでしょうが、なくなったものはないのでしょうか。
ところが中央僧院だけは、現在でも昔ながらの季節移動をしており、今となってはそれが季節の風物詩となっています。その移動日が今日で、中央僧院の僧侶は、堂守として冬のティンプに残る数十名を除いて、全員がプナカに旅立ちました。従来は馬、徒歩での移動で、1泊2日の行程でしたが、いまでは全員車で移動しますので、1日行程です。逆に、プナカ(標高1200メートル)からティンプ(標高2400メートル)への移動は、登りということもあって伝統的に2泊3日の行程でしたし、通る道も異なっていました。しかし現在では両方とも同じ国道で、1日行程の移動です。
一般の人にとっては、中央僧院がプナカに移ると、季節は正式に冬ということで、男性は正装の際に股引を着用することが許されます。ですから、寒がりにとってはこの日が待ち遠しく、公に股引を履けることになり、嬉しい日です。

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11月22日(土曜日)
従来「サンデーマーケット(日曜市場)」と呼ばれていたティンプの野菜市場は、その名の通り日曜日に立ちました。その開催日が、土曜日から金曜日へと徐々に長くなり、今では火曜日を除く毎日開かれる2階建ての常設市場になりました。これ自体大きな変貌ですが、最も大きな変化は数年前からATMが設置されたことでしょう。ATMは、ティンプではいたるところにありますし、地方の小さな街にもあります。現に今年の3月、私は中央ブータンのチャムカルの街で、何度かクレジットカードで現金を引き出したことがあります。
このATMも、その運用は国それぞれで、国民性というか国の事情が反映されています。私はフランスの銀行発行のクレジットカードを使っていますが、日本で驚いたことが幾つかあります。
まずは、日本の大半の銀行のATMでは、外国発行のクレジットカードでは現金が引き出せないことです。日本の大半の人は、このことに気付かれていないでしょうが、これはおそらく世界で唯一の例外(少なくとも私の経験ではそうです)で、外国人にとっては不便この上なく、理解に苦しみます。この辺りにも、日本の閉鎖性が感じられます。(幸いに、近年になってからはゆうちょ銀行の、そしてつい最近ではイオン銀行などのATMでは、外国発行のクレジットカードで現金が引き出せるようになりました。これが、本来あるべき姿ですが、日本では本末転倒で、これが例外的です)
もう一つ驚いたのは、時間外手数料です。これも私の経験上の話ですが、世界で日本だけだと思います。機械で24時間稼働しているATMには、勤務時間・開店時間と言ったものが本来ないはずです。それなのに「時間外」という扱いで、追加手数料(さらに消費税)を徴収するというのは、腑に落ちませんが、これも日本では当たり前のこととして受け入れられています。「時間外手数料」という、本来ありえないものを「無料」にするサービスが売り物にされていますが、これも本末転倒な話です。
去年の暮れにインドに旅行し、あちこちでATMの恩恵に浴しました。もちろん24時間稼働していましたし、時間外追加手数料もなく、フランス発行のクレジットカードで現金が引き出せました。ただ一つ驚いたのは、おそらくインド特有のことでしょうが、夜間すべてのATMには、犬を連れた警備員が配置されていたことです。配置されている、といっても、警備員が犬と一緒にATMが設置してある小さな空間に寝ている、ということです。ですから、利用者は、警備員、犬を踏みつけないように注意して利用する必要があります。感心したのは、どの犬もよく訓練されているのか、吠えたりしなかったことです。こうした警備員の待遇がどうなのか知りませんが、機械化即人員削減という世界の優勢の中にあって、インドはATMの導入により、一つの雇用を創出していることです。
さてブータンです。少し前の月曜日の午前中に現金が必要になり、あちこちのATMーーすくなくとも6、7ーーに当たってみました。理由・原因はともかくとして、そのいずれからも現金が出ませんでした。途中で知り合いのブータン人に出会ってそのことを告げたら、こんな返事でした。
「ブータン人のガーデニングを知っているだろ。ブータン人は、苗木を植えたら、あとは自然に育つものだと思っている。だから水やりをおろそかにし、その結果木は枯れてしまう。ATMも同じで、設置はするけど、その後の現金補給は覚束ない」
少しの誇張はあるにしても、外れてはいないでしょう。週末明けの月曜日の午前中は、ほとんどのATMは空っぽになっている可能性が高いということでしょう。それさえ心得ていれば、ティンプでのATMは画期的に便利なものです。
いずれにせよ、それ以後ATMへの現金補給のことが気になりました。たしかに現金輸送車を見かけたことがありません。そういうある日、制服(といってもブータンの民族服であるゴ)を着た2人の男が、手に細長いアルミニウムの箱を持って歩いて行くのを見かけました。ひょっとしたら、と思い、後を付いて行くと、案の定ATMに行きました。機械の隣りにある小さなドアを開け、二人とも機械の後ろに入り、機械を開け、作業に取りかかました。その間、ドアは開けっ放しです。そこに、おそらく顔見知りなのでしょうが、女の子が二人入ってきて、仲睦ましげに話し合いながら、作業は継続されました。何をしているのかと聞くと、機械の整備と現金の補給だとの返事です。後どれくらいで、ATMが使えるようになるのか、と聞くと、1、2分とのことでしたから、そのまま様子を見ていました。4人が和気あいあいと話し合いを続ける中、一人の女の子が、私にどこから来たのか、ティンプで働いているのか、などと話しかけてきます。そうしている間に、作業をせずに同僚を見ているだけの制服の男に、「ところで、拳銃とかの防御用具、緊急通報用の通信機は持っているのか」と聞きましたら、「そんなもの何もないよ。要らないもの」との素っ気ない返事でした。
ブータンのATM事情の一面です。管理・運用・警備が杜撰といえばそうでしょうが、これで犯罪もなく事が成り立っているわけです。ブータン社会の縮図といえるでしょう。

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11月21日(金曜日)
先週から国会が始まり、様々な事柄が論議されています。当然のことながら、ここにも、ブータンの事情がよく反映されています。
その一つが、16歳から18歳までの「未成年」の性交渉に関する事柄です。現在の刑法では、双方の合意の上であれ、16歳から18歳までの女性と性交渉を持った男性は、強姦したと見なされ刑法で罰せられます。これにたいして一人の国会議員が、「合意の上での性交渉の場合、それは「強姦」ではなく、それを一方的に「強姦」と見なし、男性だけを罰するのは、男性にとって不公平であり、差別的であるので、刑法の条項を改正すべきである」との動議を出しました。
様々な意見が交わされ、一人の大臣は、「刑法のこの条項の改正は、若い女性が強姦されたり、性的に搾取されることを助長する」と発言しました。ところが、大方の判事、弁護士は、大臣、国会議員は、合意の上での性交渉と、女性の拒否を無視しての強姦との違いを正しく認識していない点が問題である、と指摘しました。
審議の過程で、1例として挙げられたのが、16歳の女性が、自分が好きな男性を自らの意思で 誘って、性交渉に及んだ事例です。女性は裁判所で、そのことをはっきりと認め、「犯罪者は私であるのに、 むしろ犠牲者であり、無実である男性が処刑されるのは間違っている」と主張しました。しかし、そうした状況は刑法では一切考慮されず、男性は9年の懲役刑を受けました。もちろん女性側には何らの処置もありませんでした。
他にも、実際に結婚していても、戸籍上の年齢が間違っていたり、不備だったりして、女性配偶者が実際に18歳以下であると判明した場合、男性配偶者は9年の懲役に服した例が幾つか知られています。
一人の弁護士は、「ブータンでは伝統的に女性の方が早熟で、女性は16歳から18歳までの間であっても、相手を犯罪者にすることなく、自ら合意の上で性交渉を持ち、その結果に責任を負うことが許されるべきだ」と発言しています。
世界的に見て、法律的に「成人」とされる年齢は国ごとに異なります。そして、国によっては、投票権、結婚、性交渉、飲酒、運転といった事柄ごとに、許される年齢が異なります。ブータンでは、18歳をもって成人と決められていますが、事柄によっては、はっきりとは規定されておらず、従来の慣習的・伝統的なしきたりが適用されていることが多々あります。
いずれにせよ、審議の結果、動議は却下されました。 ですから今回の国会では、何も変わらず、問題のある現行の刑法が維持され、適用され続けることになります。それが大臣が発言したように、「若い女性が強姦されたり、性的に搾取されること」を防ぐことになるかどうかは、大いに疑問だと思います。そもそも他のアジアの伝統的な社会に比べれば、ブータンは性的にかなり開放的であり、現状で「強姦」は極めて少ないことは事実でしょう。
こうした国会での審議とは関係なく、女系制社会で、女性が実質的にかなりな権力を持つブータンの田舎ーー人口の大半は、まだ農村部で生活していますーーでは、女性は16-18歳ともなれば立派な成人で、子供を持ち、一家の大黒柱として働いている例がけっして少なくないのが現状です。でも、近代化とともに、激変していることは確かです。

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11月20日(木曜日)
昨日お知らせしましたテレビ番組がインターネット上にアップされました。
http://www.bbs.bt/news/?page_id=7931
すべて英語ですが、興味のある方はご覧になって下さい。

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11月19日(水曜日)
今日2通目のメールとなります。午後11時を過ぎたところですが、先ほどブータン国営テレビ放送BBSのスタジオから戻ったところです。
午後4時前に電話で、今晩9時半からの生放送のインタビュー番組に出て欲しいとの依頼がありました。依頼主はBBSの看板アンカーのダワ氏です。(ちなみに「ダワ」は「月」という意味で、月曜日に生まれた子供の多くはこう名付けられます。でも、彼の場合は、双子で、彼が「月」で、もう一人は「日」(ニマ)で、対になります。これも双子によくある名前の付け方です)
彼から依頼があったのはこれが2度目ですが、初回は2年程前で、その時はもっと唐突でした。私が友人と一緒に夕食をしている最中に、予告もなく迎えの車が来て、そのままスタジオに入っての生放送でした。もちろん事前の打ち合わせもなく、彼とは初対面でした。しかも、外国人としては初めてブータンの国語であるゾンカ語でのインタビュー生放送ということで、非常に緊張した記憶があります。でも今となっては、懐かしい思い出です。
今回は、私がボランティアとして古典チベット語を教えているということを知ったダワ氏が、その理由、目的を知りたいとのことでした。30分の番組でしたが、先回同様彼の非常にうまいリードで、私が言おうとしたことはうまく伝えられたと思います)
当然のことながら、私自身は放送を見ていませんので、どうな風に伝わったのかはわかりません。明日から色々な人のコメントが伝わってくるでしょうから、それが楽しみです。番組は、一両日中にインターネットでも見られるようになるとのことですから、それがアップされたら、サイトをお知らせします。
思いもかけないことで、ブータンでは珍しく深夜まで起きていることになりました。

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11月19日(水曜日)
改めて考えてみると、一般のブータン人(といっても首都ティンプに限られますから、ブータン全体からすれば、全人口の1割強の非ブータン的特例区と言えるでしょう)の日常生活で、1980年代と今とでの最も大きな変化は、携帯電話の普及でしょう。ティンプでは、まさに猫も杓子も携帯を持っていますし、いつも使っています。
私が1980年代に最も強烈に感じた時代の動きは、自動車道路です。道路が通じると、今までの徒歩、馬の時代の1日が、1時間に、1週間が1日に短縮されました。これは、驚異的、画期的なことでした。そして、運搬される物資の量が飛躍的に増えました。ブータン社会が劇的に変貌し始めたのは、まさに道路の開通と、トラック、バス、車の到来によります。私は1980年代の初め、まだほとんど舗装されていない道を、ドアがない帆装の4輪駆動のジープで土埃にまみれになってブータンを東から西に3日かけて横断したことがあります。今では信じられないことですが、その時の平均時速は25キロ程で、3日間ですれ違った対向車はたった3台でした。その頃の交通量、車の数からすれば、現在のブータンは車が溢れています。ブータンは確かに大きく発展しました。

次いで劇的だったのは、電気です。それまで日没とともに夜の帳が降りると、ほぼすべての活動が止み、新月の夜などはまさに闇の世界で、台所の火が唯一の灯り、温もりとなり、家中がそこに集まりました。それが、小さな裸電球が灯るや一変し、闇は一瞬のうちに消え、煌煌とした世界が広がり、家族は各々の部屋に離散しました。新しい夜が誕生し、それまでの闇の夜は、その不便さと、その独自の次元、魅力とともに完全に葬り去られました。一つの革命です。

それでも、1980年代はそこまででした。すべては現実の、肉声の、肌の温もりが感じ合える世界で、ヴァーチャルな世界は存在しませんでした。もちろん人間の想像力の世界は無限の広がりを持っていたことは、太古の昔も、当時も、今も変わりませんし、今後も変わることはないでしょう。
当時、まだ電話はほとんど普及しておらず、ことに長距離電話は実質的に存在せず、県庁所在間の無線通信が唯一でした。それが徐々にマイクロウェーヴ、衛星回線による通信網が整備され、ブータンはもはや陸の孤島ではなくなり、リアルタイムに世界と結ばれています。携帯電話はほとんど必需品となり、最新の機能を備えたスマホが出回っています。

それでも、日本のことを思うと、どこかに人間的な繋がりの世界が残っています。日本の首都圏の電車の中の、誰もがスマホの画面に見入り指で操作するるか、イヤホンを耳に当て、隣り合わせた人とは全く無縁に、自分一人の世界に没入している無音の世界。ブータンでは逆に、 公の場で一人でゲームに興じたり、アプリの世界に没頭したりする人は稀で、 通話の肉声が飛び交う、喧噪ともいえる世界です。会ったこともない人たちとのソーシャルネットワークはほとんど存在せず、フェースブックなどでもお互いに実際の顔見知り同士が、直接会って伝えあえない情報をアップしあっているのが大半です。
文明の利器は同じでも、その用い方は人それぞれ、国それぞれです。

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11月18日(火曜日)
10月10日に到着しましたから、既に1ヵ月余が経ちました。途中急用で10日程空けましたから、実質的には1ヵ月です。今回の滞在というか生活が、すべて順調に進んでいる一番の理由は滞在先の快適さ、利便さです。
この宿は、僕の友人夫妻が家族経営し、同時に自らの住まいとしているもので、ティンプの中心地に位置しながら庭もあり、静かなた佇まいです。何よりも普通のホテルとは違い、ビジネスッ気がなく、家庭的で、落ち着きます。庭には、私が以前から2、3本ずつ持参した牡丹、ツツジも立派に育っていて、楽しめます。1980年代の中頃に建てられたもので、ティンプにおける外国人向けの民間宿泊施設としては最初の一つです。その頃イギリスのチャールズ皇太子がブータンを訪れましたが、ただ1回の外食の場所に選ばれたのがここで、玄関を入ったところにその時の写真が飾ってあります。(あまり目立たないところにひっそりと置いてありますから、気が付く人はほとんどいません。経営者の控え目な性格を反映しています)鉄筋コンクリート構造ですが、外観は大きなブータンの民家といった感じです。何よりもいいのは、階段も廊下も、そして部屋の床も、壁(中程まで)もすべて伝統的なブータン作り、すなわち板敷き・板張りである点です。ですから1日中部屋の中にいても、身体に負担がかかりません。これは、近代的な工法・建材のホテルの部屋と本質的に違うところです。
私は1990年代からここを定宿にしていますが、今回は2間に小さな台所付きの部屋を借り、バンコクからオーブンも持参しましたから、気晴らし、時間つぶしにケーキを焼いたりでき、これが最も良かった点です。インド地域の標準で、バス、トイレ同様、台所も大理石敷きですし、調理台もすべて大理石というのは、タルトの生地を伸ばすのには理想的です。
一応ホテルですから、清掃などは全く任せきりで、気が楽です。その上、アパートなどとは違って自分で部屋の管理・保全・修理といったことをする必要もなく、自分の全時間・神経・エネルギーを、自分の生活に費やせます。従業員の大半は以前からの顔見知りで、こちらの生活パターン、嗜好といったことを心得てくれていますので、申し分ありません。
ここにはレストランもありますが、私は経営者夫妻の家で用意されるブータン式のおかゆを朝食にいただきます。ブータンのおかゆは、お米が主ですが、それに肉、チーズが入り、調味料としては当然のことながらトウガラシ、そしてティンゲとよばれる四川胡椒、ショウガが効いています。このおかゆは、ことに寒い時期には身体が温まり、1日を始めるのに最適です。このおかゆに、新鮮なヨーグルト、果物といったところが朝食です。加えて、世界的な茶の名産地であるダージリンが近いので、美味しい紅茶が、ごく日常的に飲めるのも魅力の一つです。
1階には別のレストランがあり、数年前から友人のウゲン・ナムゲルが経営しています。観光客グループ、政府関係の役所のパーティーが主な客層ですから、日頃は閑散としていて、開店閉業といったありさまです。ですから、従業員を遊ばせておくよりは、ということで、ウゲン・ナムゲルは毎日友人2、3名と昼食をここで食べています。それを幸いに、私も仲間に加わり、週末を除く毎日12時半から2時頃まで、食前酒を飲みながらあれこれ四方山話をし、ゆっくりと昼食を楽しんでいます。
もう1点今までと違うのは、今回は車を借りずに、すべて徒歩で用を済ませていることです。ティンプは急な斜面に位置していますから、どこに行き来するのにも、上り下りが大変です。荷物があればなおさらです。ですから、ついつい短い距離でも車で移動することになり、私も今までそうしていました。それを今回は、一念発起して私用では車を使わないことにしました。ですから、市場に行くのにも坂道を下り、果物などの買い物をした後は、少し辛くはありますが、上り道を歩いて戻ることにしています。車で動くのとは全く異なった時間の流れですし、目に止まる世界が別のものです。そして、身体にもいいですし、何よりも大した用もないのにあちこち出回ることがなくなりました。
すべて自分の足で歩く速度での日常生活は、行動範囲は狭まりますが、車で動く生活とは全く次元の異なるものです。今回は、それを十分楽しもうと思っています。

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11月17日(月曜日)
今日は世界未熟児デー(World Prematurity Day)で、ティンプの中央病院で式典があり、招かれましたので出席しました。そこで知ったのですが、全世界で未熟児あるいは早産児は、実に全新生児の1割に当たるとのことです。かれらは普通に母親の胎内で充分に生育してから生まれた子供よりも未発達で、一層の看護を必要とします。
ブータンでは、昔から新生児にツェゴすなわち「命(ツェ)の衣(ゴ)」を贈る風習がありました。近代化とともにこの風習は廃れましたが、これを見直し、主に未熟児に照準を当て、帽子とか靴下を編んでツェゴとして贈るプロジェクトが中央病院のイニシアティヴで始まり、多くのボアンティアが編み物に励んでいます。すでに1300程の小さな編み物が、未熟児の旅立ちを暖かく包んでいるとか。今日の世界未熟児デーに合わせて、このプロジェクトが内閣総理大臣臨席のもと正式に発足し、「小さな靴下、大きな夢」をテーマに、未熟児・早産児の問題、家族の課題が討議されました。
このツェゴ・プロジェクトを推進した中心的人物の一人が、中央病院で働く一人の日本人女医です。そして、そのきっかけとなったのは、私の長年の友人であり、ブータンを代表する女性作家であるクンサン・チョデンさんが手がけた『ツェゴ』という絵本で、それに絵を提供したのが、これまた現在ティンプで伝統絵画を習得中の日本人女性です。(ちなみに、この絵本はブータンの温もりが伝わってくるすばらしもので、邦訳出版できたらと思い、下訳を用意して日本の出版社に当たっているのですが、残念ながら今のところ快い返事はありません)
このあたりにも、ブータンの様々な分野で、如何に日本人が深く関わっているかがよく伺えます。1980年代前半まで、ブータン在住の日本人はコロンボ計画により派遣された故西岡京治氏一人でした。それが1986年に国交関係が樹立され、1988年になって青年海外協力隊の第1次派遣が始まり、それ以後大使館こそ設置されていませんが、専門家、協力隊員などブータンに短期・長期在住する人も増えてきています。
まさに隔世の感があります。

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11月16日(日曜日)
先便で触れたバターに関して、1980年代にティンプで入手できたのは、インドから輸入された、工業的に生産された有塩バターだけでした。ところが現在では、ブータン各地で小規模な生産共同体で作られた無塩バターが容易に入手できます。すべて標高3000メートル近くの地域で生産されたもので、主な産地はブータン最西端のハ谷(谷の中心地の標高は2700メートルですが、放牧地はこれよりも数百メートルまで高まります。以下同じ)、ブラックマウンテン山中のゴゴナ谷(3100メートル)、そして中央ブータンのブムタン(2700メートル)です。これとは別に、酪農家が各々個人で作ったバターを売っている場合もあり、ほとんどは大きな木の葉に包んで、藁のようなもので縛りつけるといった、いかにも手作り的な包装です。
いずれにせよ、今回はこのおいしいバターをたっぷりと使っています。というのは、今回日本からの中継地であるバンコクでオーブンを調達し、ティンプでは小さな台所付きのホテルの1室に滞在していますから、ほぼ毎日このオーブンを使っています。主にビスケット、タルト、ケーキといった菓子類を焼いては、友人に振舞っています。ブータンには伝統的なお菓子の類いはほとんどありませんが、それでもブータン人はケーキ好きといえるでしょう。その大半は工業的に生産されたものですが、ブータン人のケーキ屋もかなりあり、手造りのものも味わえます。
そもそも私自身はケーキの類いはほとんど口にしませんが、日本で家内が開いているトールペイント教室の生徒さんたちへのお茶菓子として焼き始めたものです。フランスの数種類のレシピ、およびフランスで実食したケーキ、タルトの味を参考に、全くの我流で作るものですが、とにかく家内は美味しいと言ってくれますから、何種類か作っています。
ブータンでは、ブータンで入手できる素材で作ろう思い、タルト・タタンとレモン・タルトに照準を合わせました。
折しもリンゴの季節ですし、ブータンはインド亜大陸では西北のカシミールと並んぶリンゴの名産地ですから、格好の材料です。またタルト・タタンは、私が住んでいるフランスの田舎の家からさほど遠くないところにあるタタン・ホテルの二人姉妹の考案になるもので、私としては少なからず奇縁を感じます。
レモンは温暖なプナカの谷に自生しています。ただし、ブータン人は全く利用せず、原生種ですから、皮が厚く、種が多く、果肉はかさかさで、果汁はほとんどないと言っても過言ではありません。しかし、大きなものを4-5個絞れば、何とかタルト1個分の果汁は確保できます。
古典チベット語の授業のように、こちらの努力の成果がずっと先にしか現れない活動とは違って、お菓子の類いは反応が即座ですから楽しみです。概ね好評で、リンゴを持ってくるから焼いて欲しいという人が何人も出てきました。
  一番驚いたのは、試食した友人の姪と12歳の娘がどうしても自分で焼けるようになりたいから、教えて欲しいと申し出てきたことです。それで、週末の午前中、二人にそれぞれ自分でタルト・タタンとレモン・タルトを焼いてもらうことにしました。私は手順を教え、時々実技指導するだけで、実質的には彼女らが自分で焼くという段取りです。
まずは12歳の娘がレモン・タルトを、続いて看護師をしている姪がタルト・タタンを手がけ、昼前には2つとも焼き上がりました。本来なら食後のデザートか、あるいはお茶菓子として食べるものですが、2人ともさっそく味見したいというので、昼食代わりにレモン・タルトを食べることにしました。なんと、フランスでも最大級の直径30センチの容器で焼いた、普通なら10ー12人分のタルトの半分を2人で美味しい美味しいと自画自賛しながら平らげたのにはびっくりしました。何よりも感動的だったのは、12歳の娘が「こんなに美味しいものが焼ける私って、すごいね!」と自分の能力に感心していたことです。その純真さ、天衣無縫さにもまして、この年代の子供の可能性の大きさを実感すると同時に、教育・環境の重要さに改めて驚きました。

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11月15日(土曜日)
1週間の休講の後、昨日の夕方古典チベット語の授業を再開しました。長らく休んでいた生徒が戻ってきたり、先週新たに加わって、まだチベット文字もはっきり認識できない生徒がいたりします。レベルがまちまちなので進行が難しのですが、現在残っている十数名は全員熱心ですので、何とか落ちこぼれを出さないように工夫しながら進めています。
今日土曜日は午前中に市場に出かけるのを日課にしています。自炊しているわけではないので買い出しが目的ではなく、どんな野菜、果物があるかを見に行くのが主です。思い返すと1981年2月末にティンプに住み始めて一番困ったのが食料の調達でした。街には魚屋は言うに及ばず、肉屋も八百屋も全くありませんでした。雑貨屋の店頭に小さくて不揃いで、お世辞にも出来がいいとは言えないタマネギ、ジャガイモ、ショウガ、ニンニクが少し並んでいるだけでした。果物は皆無で、野菜も乾燥させた青菜だけで、たまに見かけるニンジンとカブラは、乾燥させたのかと思える程萎びたものでした。唯一の例外が、西ブータン人の主食である米と、トウガラシでした。後者は、全ブータン人にとっては、香辛料ではなく、れっきとした主「野菜」であり、これだけは新鮮なもの、乾燥させたもの、湯通ししたもの、粉にしたもの、選り取り見取でした。結果的には、毎日の食事はご飯と野菜一品という質素で単調この上ないものとなりました。やがて春から夏にかけて、食料事情は少しはよくなったとはいえ、食事が楽しみといったところまでは至らず、秋も過ぎ冬に向かう頃、後1年こうした食料事情の中、ブータンでの生活を続けられるかどうか、覚束なかったのが事実です。
それが、今は隔世の感があります。川沿いの市場は2007年に王制百周年記念行事の一環として整備され、2階建ての立派な常設の「王制百周年記念農民市場」となっています。おそらく全ヒマラヤ地域で最大の市場でしょう。素晴らしいのは、床はすべて総大理石で、清潔さが保たれていることです。穀物、野菜、果物、酪農品といった区画分けがしてあり、おそらく300名近くの出店者があるでしょう。ブータンの気候の多様性を反映して、亜熱帯地域、温帯地域、高山帯から本当に様々な果物、野菜が集まります。この季節でも、マンゴ、グアバ、バナナ、ザクロ、パパイア、パイナップル、リンゴ、ミカンなど種類が豊富です。近郊の生産者が自らの栽培品を直接出店している場合もありますが、あちこちから品揃え豊富に集荷する野菜商人、果物商人といった商店化・専門化が進んでいることも事実です。それでも、ほとんどの店の品揃えはほぼ同じで、値段も大差ないのは、他の雑貨店なども同じで、一人ひとりが独立心が強く、他人の指図を受けたがらないブータン人気質を反映しています。そのいい面もありますが、共同出資して大きな事業を起こすといったことは苦手で、小規模な活動が多く、インドから、さらには外国からの大資本を前に立ち向かえません。
いずれにせよ、ブータンの緯度(沖縄とほぼ同じ)・標高(2000ー3000メートル)で、農薬・化学肥料を一切使わないとまでは行かなくとも、極度に制限して栽培された新鮮な野菜は、見栄えはけっしてよくはないですが、滋養分が豊かで、野菜本来の味がして、本当に美味しくいただけます。またバターには格別の風味がありますが、いってみれば高山植物・薬草しか口にしない牛の乳から、騎馬・牧畜民族であるチベット人の血を受け継ぎ、酪農は天性のものであるといえるブータン人が作っているのですから、当然です。

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11月14日(金曜日)
本来なら中央ブータンへの1日行程の旅に出かけるはずだった5日、思いもよらない急用でバンコクに発ちました。1泊して名古屋に向かい、用を済ませて、今日午前中にパロに戻りました。パロ空港に降り立つ度に、何とも言えぬ晴朗な気分に包まれます。空気の薄さ、日差しの強さ、空の青さの透明感と濃さ、そよ風、周りの民家、パロゾン、そして人々の表情、動きのリズム、その他諸々の要素、その全体が醸し出すものでしょう。
それにしても、チュメー谷プラカルの秋祭りが見られなかったのは残念です。
また第四代国王の60歳誕生日の祝典にも参加できなかったことも惜しまれます。ブータンではいわゆる「数え年」で計算しますから、第四代国王は今年。60歳ですが、西洋式には来年がそうです。いずれにせよ、これから1年間、ブータンは第四代国王60歳記念の行事が続きます。そして観光面では、Visit Bhutan Year (ブータン訪問年)として、観光客の誘致に力を入れるとか。
しかし、私にとって一番の心残りは、谷全体にほとんど人工的な灯りがない、標高2800メートルのチュメーで、 6日の満月が見られなかったことです。今年の8月、9月は、ひときわ大きくて明るいスーパームーンの満月を、快晴に恵まれたフランスの田舎で眺めることが出来ました。10月の満月は、ブータンへの途中ちょうどバンコクに着いた日でしたが、あいにく雨のち曇りで、見ることが出来ませんでした。今月は、チュメー谷で見ることはできませんでしたが、 ちょうど日本に夕方着いて、車で家に向かう途中で、車窓からきれいな満月が見えました。12月も6日が満月ですが、この時は出来るだけ高いところで眺められたらと思っています。不思議なもので、月を眺めていると、自然に遠く離れている人たちのことに思いが馳せます。『伊勢物語』の在原業平が、旅先で「都鳥」を見て、都にいる人のことを思ったように、私は満月を目にするときに離れている人たちのことを思います。
こと問わん 鏡のごとき満月に わが思う人はありやなしやと

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11月4日(木曜日)
先に紹介したロンポ・サンギェ・ペンジョルは、中央ブータン・チュメー谷の出身です。中央ブータンには四つの谷があり、西から順(つまり首都ティンプから近い順に)にチュメー谷、ワンチュック王家の基盤であるチョコル谷、タン谷、ウラ谷です。その内のチュメー谷は、ロンポがその回想録『三代国王に仕えて』で述べているように、おそらくブータンで最も美しい谷の一つででしょう。東西に開けていて、中心部には500メートル程まっすぐに延びる平坦な道がありますが、全土上り下りを繰り返し、うねった道しかないブータンで、これが最も長いほぼ水平な直線道路でしょう。
この谷の中央に位置するのがプラカル屋敷で、ロンポ一家の本屋敷です。現在は、ロンポの次男で、ティンプ在住のウゲン・ナムゲルが当主の役を努めています。その彼が、この屋敷で催される、チュメー谷最大の祭の監督のために、明日から1週間帰省しますので、私も授業を1回だけ休講(幸いに来週の火曜日は第四代国王誕生日で祝日に当たり、授業は自動的に休講です)にして同行します。
ブータンは東西を横断する道は1本しかありませんから、チュメー谷までの道のりは、その中程までは2週間程前に行ったポプジカ谷(今頃はもうオグロヅルが飛来していることでしょう)へのそれと同じです。テインプ(標高2300m)からは、途中ドチュラ峠(3100m)、ワンディポダン(1200m)、ペレラ峠(3400m)、トンサ(2200m)、ユトラ峠(3400m)と登り下りを繰り返して、8時間余かけて標高2700-2800mのチュメー谷に着きます。距離にして約300キロメートル、累計標高差8キロメートルの道のりは、途中の休憩を入れると、丸1日かかり、同じ道をまた丸1日かけて戻るという旅程です。
私にとっては、既に何十回と往復した同じ道ですが、いつも新しい発見がありますし、新しい出会いがあるのと同時に、旧知の面々に再会でき楽しみです。

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11月3日(水曜日)
昨日の日曜日は、快晴とまではいかないまでも、青い空と白い雲が楽しめる1日でした。祈願幟を一緒に立てた友人夫妻チミ・ドルジと奥さんのツォキ、そして私の一番親しい友人ウゲン・ナムゲル(ロンポ・サンゲ・ペンジョルの次男)と連れ立って、ピクニックを兼ねて、あるお寺に参りに行きました。
このお寺は、パロ川とティンプ川の合流点から、傾斜の厳しい絶壁のような崖を登り詰めた頂きに孤立して建っています。以前から気になり、訪れてみたかったのですが、どこから道が通じているのかもわからず、今に至っていました。そしたら、最近になって4輪駆動でなら行ける道が切り開かれたと聞いたので、思い立って行くことにしました。
首都ティンプから国際空港のあるパロまでの区間は、完全に舗装され、中央分離線があり、ほぼ対向車を気にすることなく走れる、ブータンで唯一の整備された自動車道路で快適です。ティンプからティンプ川に沿って南下し、ティンプ川とパロ川とがV字をなして合流するチュゾムまで下ります。そこで橋を渡り、今度はパロ川に沿ってパロ空港までのほぼ中間地点であるシャバまで約1時間の快適なドライブです。
そこからは、切り開かれて間もない山道で、もちろん舗装はされておらず、でこぼこ道どころではなく、大きな岩が飛び出ている箇所もあるかと思うと、すでに崖崩れで道幅が狭くなっていたり、道そのものがかなり傾いた感じのところもあります。また、いろは坂のヘアピンカーブといったなまやさしさを越えて、1度では曲がり切れず、一旦停車してバックし、さらにハンドルを切って曲がる、という切り返しの連続です。この道を、揺られに揺られて、よくもこんな道を切り開いたものだと感心しながら登ること1時間半、ようやくお堂に着きました。標高は約3800メートルで、日本の最高峰富士山を越えています。シャバの標高はわかりませんが、おそらく2100メートルくらいでしょうから、1700メートル程登ったことになります。途中あちこちの山腹に、小さなお堂、民家が散在しています。何時の時からか、よくもまあ、こんな山中に住み着き、お堂を建立し、生活を営んだものだと、信じられません。ところどころ、2階建ての立派なものまでふくめて、いくつかの民家が廃墟になっていますが、聞くところによると、一家そろって、あるいは集団で、都市部に移ったためだとのことです。近代化の影響は、この山奥まで確実に及んでいます。

頂からは、一方にはティンプの近くまで遠望でき、もう一方にはパロ谷の山腹が見えます。もう一方にはティンプ川とパロ川とがチュゾムで合流してから南下する川沿いのV字型の谷が見渡せ、先々週立てた祈願幟も、遥か彼方、少し下方に、かろうじて見えます。祈願幟を立てた地点からは、すぐ目の下に見えた飛行機は、ここからは遥か下を飛んでいて、手を伸ばしても届きそうにありません。周りを見渡すと、山腹はまるで人間の脳皮のようで、複雑に入り込んだ起伏をなしています。そこに細々と切り開かれた道は、まるで毛細血管のようで、人間の営みが大自然の中でいかにか細いものであるかを物語っています。
お堂は修復中で、仏像、仏典などはすべて仮設の小屋に納めてあります。創建の時代は特定できませんが、ブータン中世の最も著名な埋蔵法典発掘僧ペマ・リンパ(1450-1521)の法脈に繋がるものです。しかし現在は、ブータンの国教であるドゥク派が管轄しています。中央僧院から派遣されている2名の堂守を除いて、現在この孤立した頂きに住むのは数名の警官だけで、彼らが修復工事に携わっています。
ポプジカ谷のお堂の再建といい、このお堂の修復といい、ブータンの、ブータン人の全活動のかなりな割合が、こうした営みに費やされています。GDPのかなりな部分に相当するでしょうが、それがGNH(国民総幸福)に繋がるのかどうかはわかりません。はっきりしているのは、ブータン人にとっては、このバランスに違和感はなく、むしろそこにこそ安らぎを見出していることです。

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11月2日(火曜日)
今日は散歩道を変えて、ホテルのあるワン・チュ(ティンプ川)の右岸から、橋を渡って左岸に行き、再び右岸に戻るというコースを歩きました。このコースは、高低差はほんの少しですが、距離的には少し長くて6キロ程になり、時間的にも1時間半くらいです。
ホテルを出て、第三代国王発願仏塔を右に回って、そのまままっすぐ中央分離帯のある大通りを中央政庁であるタシチョゾンまで歩きます。そこで現国王の住まいの垣根を左に見ながら、ワン・チュを左岸に渡ります。こちら側はまさに屏風のような絶壁で、辛うじて車道が1本通っているだけで、建物は全くありません。ですから、川幅10メートル程の渓流といえるワン・チュ川沿いに南下するのですが、川の音が聞こえるだけで、右岸の市街地とは全くの別世界です。右岸を眺めると、まさに大きさ、色、形が千差万別で、無秩序に林立しているビル、家屋で埋め尽くされている異様な光景です。これを見る限り、ティンプは、緑の国、エコの国ブータンにはおよそふさわしくない首都であり、ブータンの最大の恥部といえるかも知れません。
タシチョゾン近くの橋と、ティンプの南の入口であるルンテン・サンパ橋との中程の右岸に中央野菜市場があり、その南にはチャンリミタン・スタジアムがあります。ここがティンプの最大の催し物会場であり、国の式典の多くはここで催されます。それに続いて、アーチェリー・グランドが整備されており、国技であるアーチェリーのトーナメント会場となります。この辺りの川縁は、王制百周年記念事業に一環として公園として整備されています。
こうした右岸を眺め下ろしながら歩き、再び右岸に戻るのには、ルンテン・サンパ橋を渡ります。いってみれば、ここがティンプ発祥の地です。東チベット生まれで、中央チベットを経て、ヒマラヤ山脈の南のブータンにドゥク派の教えを最初に伝えたのがパジョ・ドゥゴム・シクポ(1184−1251)です。彼は、この地でソナム・ペドンと出会い、子孫を設け、彼らがドゥク派の教えを西ブータンの各地に広め、後世のドゥク派による国家統一の基盤を築きあげました。
右岸に戻ると8時近くで、首都の1日の胎動が始まっています。右岸と左岸とで、これだけ対照的なのも珍しいと思いますが、地形上ティンプはこうした二つの世界に二分されています。

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11月1日(月曜日)
今日は第五代国王戴冠記念日で祝日です。あいにく土曜日に当たり、日本のように振替休日制度がないので、3連休にならないのが少し残念です。でも、偶然ですが、11月から役所は冬時間になり、来週からは終業時間は午後5時から午後4時に早められるのは、誰もが喜んででいます。
第五代国王は、2006年末第四代国王の突然の退位を受けて、26歳で即位したわけですから、もう7年になります。65歳で定年退位と憲法で定められていますから、あと最長で31年間の統治となります。この間、ブータンはどうなるのでしょう。
古典チベット語の授業は、昨日で3週間、計6回を終えました。生徒は、総計で80名以上いた受講志願者の中から、先着順で25名が選ばれました。授業開始後、少し増減があり、現在は15名程で安定しています。これは最初から私が望んでいた数で、すべて順調です。当初2時間を予定していた授業は、現在世界中の大学で一般的な1時間半に短くしました。これは、生徒の集中力の限度を考慮してのことです。生徒はすべて、自ら志願した人たちですから、学ぼうという意欲があり、こちらも教え甲斐があります。
ブータン人の母国語であり、公用語であるゾンカ語と古典チベット語は非常に近い関係にありますが、ブータン人一般には、古典チベット語すなわち仏典の言葉は難しくて手に負えない、という思い込みがあります。この「誤信」には、様々な理由・背景がありますが、色々な国で古典チベット語を教えた経験のある私には、到底受け入れることができないものです。今回私が全くのボランティアで古典チベット語を教えようと思い立ったのは、古典チベット語は 3ヵ月余の授業でキッチリ読めるようになるということを実証し、この国民的「誤信」に何らの根拠もないことを証明したいからです。ひいては、仏教古典の素養に基づいた、独自の確固たるアイデンティティを持つブータン人が育って欲しいからです。それなくして、GNH「国民総幸福」の国ブータンはありえない、というのが私の信念です。
いろいろな意味で、これからのブータンが本当にどうなるのか、気になるところです。

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10月30日(金曜日)
ブータンに着いてから10日発ちました。今回は4か月足らずの滞在予定ですが、1981ー90年の滞在以来、はじめて「生活する」感じです。
それにしても1981年2月末に、数年にわたった交渉の末、しかも80年9月からニューデリーで5ヵ月以上待ったあげくにようやく入国許可が下りて、ブータンに着いた時のことを思い返すと、雲泥の差です。しかも当時は、ブータンに知人もほとんどなく、その上に到着直後に「あなたがブータンに来たことを、誰もが喜んでいるわけではない」と外務省の役人から宣告されて、敵中に一人で乗り込み、孤軍無援、四面楚歌のような状態で生活を始めるしかなかったのですから、なおさらです。それに比べると、今回は旧友たちの間に戻った感じで、本当に楽しく日々を送っています。
私が一番親しくしていて、いわばブータンの家族といえるのは、1993年に65歳の若さで事故死したロンポ(大臣)・サンギェ・ペンジョル一家です。ロンポは、ブータン初代国連大使をはじめ、要職を歴任した人で、私がニューデリーでブータン入国の交渉をしていた時には、在インド・ブータン大使でした。そのとき以来、本当によくしてもらい、ブータンに生活するようになってからは、私を家族の一員として受け入れてくれました。私がブータンに10年の長きにわたって生活できたのは、ひとえにロンポおよびその大勢の家族の面々のおかげです。
一夫多妻制が一般的で、離婚も多く、しかも離婚後の女性の再婚が一般的という婚姻形態が、日本のそれとは全く異なるブータンですから、日本人には非常にわかりにくいでしょうが、ロンポの血縁関係を少し説明しますと、
1)ブータンの第二代国王の王妃二人は、 父親の異父姉妹つまり叔母ですから、第二代国王の甥に当たります。
2)ですから、第二代国王の長男である第三代国王とは、従兄弟の間柄になります。
3)長男が、第四代国王の一番上の姉と結婚しましたから、第四代国王の「叔父」に当たります。
4)これは、死後に実現したことですが、異母姉妹の妹の娘が、第五代国王の妃となったので、今生きていれば、第五代国王の叔父でもあります。
婚姻関係は複雑極まりないので省きますが、とにかくワンチュック王家に非常に近い家系の人であることはおわかりいただけるでしょう。
このロンポの家系に迎え入れられた私は、昔からロンポの異母姉妹の妹とは親しくしていましたが、彼女の娘が現王妃となったわけです。そして、現在私が一番親しくしているのは、ロンポの次男ですが、彼も現王妃の従兄弟になったわけです。 もちろん一族全員は、王妃を輩出したことを喜び、誇りに思っていますが、けっして驕ることはなく、形式張ることもなく、以前と変わることなく気さくに交流があり、親しくしています。
そんな人たちに囲まれた毎日は、楽しく過ぎていきます。

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10月27日(月曜日)
先に祈願幟25本を立てたことを記しましたが、これは今回ブータンに着いた直後に、友人夫妻からの誘いがあって、私も加わらせてもらった次第です。「祈願」が同じということで、私もその費用の一部を負担するという形で加わったまでで、私自身の殊勝な思いからしたことではありません。
「祈願」といえば、日本でもけっして珍しいことではありません。神社あるいは寺院での「安産祈願」、「合格祈願」、「必勝祈願」といったことは、ごく日常的で、ほとんどの人がした経験があると思います。しかし、同じ「祈願」といっても、日本人のそれと、ブータン人のそれとの間には、本質的な違いがあるように感じられます。ですから、ブータン人のダルシンを日本語で「祈願幟」と紹介したことは、逆にその本質を誤って伝えた、あるいは誤解されたのでは、という危惧があります。かといって、より適切な言葉もなく、途方に暮れます。ブータン人の「祈願」の本質を少しでもわかっていただくために、2つの例を紹介することにします。

1つは、ブータン人ではなくチベット人の話ですが、彼らはいずれも同じチベット系仏教を実践する人たちで、その「祈願」は一緒です。私の日本人の友人が、チベット人と自分の子供を連れて、初詣に出かけました。そこで、日本の伝統的な行事をチベット人にも経験してもらおうと、絵馬を奉納することにしました。後で自分の子供に何を祈願したのか、と訊いたら、一人は「今年も家族が健康でありますように」であり、もう一人は「志望校に入学できますように」とのことでした。同じことをチベット人に訊いたら、奇しくも二人とも、「一切衆生が速やかに仏果を得ますように」と祈願したとの返事でした。
この2人のチベット人が、表向きに模範解答をしたと勘ぐることも出来るでしょうが、私は彼らの「祈願」は、まさにそうだったと思います。チベット人からしたら、日本人の「祈願」は、極端なことを言えば、自らの欲望成就への願望の表現に過ぎず、仏教的には煩悩そのものということになります。

もう一つは、私の友だちのダムチョというブータン人女性の話です。彼女は、男の子に恵まれ、非常に可愛がっていました。ところが、子供が4歳ぐらいの時に、化身と認定され、お寺に引き渡すことになりました。(こうした場合、チベットでもブータンでも、家族が化身認定を拒否し、子供を家に引き止めることは稀です。現在の「親権」意識からすれば、信じられないことでしょうが、チベット人・ブータン人にとっては、自分の子供が化身と認定されることは、喜びであり、名誉です)その後3、4年間は、子供は修行のため寺院で生活することになり、家族は会いにもいけませんでした。
離別後、化身としての我が子との初めての面謁の際、母親は離別の辛さ、そして子供に対する愛しさを縷々と述べました。それをじっと聴いから、化身は、
「母ダムチョよ、あなたの私に対する思いは、有り難く思います。しかし、その愛おしさを、私一人に向けるのは偏狭であり、間違っています。その思いを、他の人にも、ひいては一切衆生に向けてこそ、仏教徒です。すべからく、そう努めるように」
と答えました。これも、絵に描いたような「模範解答」かも知れません。しかし、母ダムチョはこの答えに一瞬驚いたものの、自分の子供が本当に偉い化身だと確信し、以後自分の子供を自分の師として信奉し、自分がその師の母親であることを誇りに思っています。

言葉の上では、同じ「仏教」の同じ「祈願」とはいっても、日本のそれとブータン・チベットのそれとは、異質なものとしか言えない感じがします。
いずれにせよ、私自身はこうした信仰に生きるブータン人のなかで生活することが肌にあっている、というかそれが自然に受け入れられます。

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10月26日(日曜日)
先のメールで、「西側の市街地の中央に、ひときは高く聳えるのが第三代国王記念仏塔です」と書きましたが、後味が悪く、少し説明する必要があると思い、このメールを認めます。
「第三代国王記念【、、】仏塔」(英語では、メモリアル・チョルテン)という表現は外国人の間で言い習わされているもので、便宜上それに従ったまでです。しかし、そもそもブータンには、顕彰碑というものは一つもなく、記念(メモリアル)という言葉は、この仏塔の由来・性格を歪めています。
第三代国王は、仏教国の君主の責務の一つとして、国内に仏の身口意の働きを具象化することに努めました。身とは身体の働きで、具体的には仏像、口は言葉の働きで、経典、意は心の働きで、実際には形に表せないので、便宜上仏塔で表わすというの伝統的です。
それ故に、まず身の具象化として、一万体の鋳造仏を建立し、かつての国会議事堂はじめ、国内各地に配布しました。
次に、口の具象化として、紺紙金泥のカンギュル(大蔵経)を建立し、国会議事堂内の仏間に奉納しました。
そして最後に意の具象化として、仏塔の建立に着手しました。ところが国王は、その完成を待たずに、一九七二年に外遊先のナイロビで急逝しました。その遺志を継いで、第四代国王が事業を継続し、身口意の三つの具象化が完成したわけです。 以上の経過からすれば、「記念」という言葉は、この言葉の一般的な意味からして適切ではなく、むしろ「発願」と言うべきです。ですから「第三代国王発願仏塔」がふさわしい名称でしょう。顕彰碑の概念そのものがないブータンで、しかもパスポートの職業・身分の欄に「国家公務員」と記した第三代国王にとっては、なおさらそうだと思います。
この精神は第四代国王にも受け継がれています。二〇〇三年、南部に立て籠ったアッサム人ゲリラ駆逐作戦を自ら陣頭指揮し、電撃的な勝利を収め、ブータンの主権と独立を守った彼は、作戦終了を告げただけで、戦勝記念式典も行いませんでした。ドチュラ峠に建てられた一群の仏塔とお堂は、本質的には、ブータンの独立を守ってくれた守護尊への感謝と、ブータン・アッサム双方の戦死者の慰霊の碑です。
戦争も含めて、ブータン人にとって人間の世俗的な営みは必要ではあるが、仏教の究極の目的からすれば取るに足りないものです。ですから、それが何であれ、それを行った者が誰であれ、ことさら「顕彰」するに値しないのでしょう。

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10月25日(土曜日)
ブータンの首都ティンプは、南北数十キロにおよぶ谷に位置しています。中央政庁タシチョ・ゾンのある辺りは、西側の裾野が少しなだらかで市街地はこちら側に密集しています。この南端にすこし突出した丘があり、その辺りからは逆に東側がなだらかになり、新しい市街地はこちらに出来つつあります。その少し南には、ブータン最古のゾン(城塞兼寺院)であるセムトカ・ゾンがひっそりと建っています。
西側の市街地の中央に、ひときは高く聳えるのが第3代国王記念仏塔です。ここはティンプ市民の「憩いの場」ならぬ「祈りの場」で、1年中、朝から晩まで右繞する人、五体投地を繰り返す人が絶えません。今は数日間に及ぶ大祈願会が開かれており、陽が昇る前から多くの人が集まっています。そして、冷え込み始めた今、朝早くにはお粥が振舞われています。トウガラシ、山椒、しょうがで味付けしたおかゆは、ブータン独特のもので、身体が芯から温まります。私は毎朝6時から7時頃にかけて1時間程散歩するのを日課にしていますが、今はその途中で、このお粥を美味しくいただいています。
東の山の稜線から陽が射し始めると、雰囲気が一変します。東側から突出した丘の上、北にも南にもティンプの谷を一望できるところに、数年前に金色の大仏が建立されました。この大仏の頭部に陽光が当たると、それが反射して、あたかも仏が眉間から慈光を放ったかのように、ティンプの谷全体がその光にすっぽり包まれます。
仏の国ブータンの首都の朝はこうして明けます。
この威光の荘厳さとは対照的に、数階建てのビルがほぼ無秩序に立て込んだティンプ市街の日中の雑踏は目に余るものがあります。ブータンの首都も、やはり二十一世紀を生きていることに変わりありません。それでも、早朝の静寂さだけは、私が最初に住み始めた1980年代からほとんど変わっていないのは、救いです。

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10月23日(木曜日)
昨日,今日と、西ブータンと中央ブータンとの境をなすブラックマウンテン山脈の奥深くに位置し、オグロヅルの越冬地として知られるポプジカ谷の最も奥まったところに再建されたお堂の落慶法要に参列して来ました。
私が現在滞在している首都ティンプは標高2500メートルで、ポプジカの谷は約2800メートルです。ですから標高差は300メートル、距離的には150キロメートル程で、時間的には約4時間の行程です。この数字だけからすれば、この移動はそれほど大変とは思われないでしょうが、実は普通には想像もできないものがあります。
まずは標高2500メートルのティンプから、標高3100メートルほどのドチュラ峠に登り、そこから一挙に標高1200メートルで、バナナの木が生育している亜熱帯気候のワンディポダン谷まで下ります。その谷底から、今度は登りに転じ、再び標高3100メートルまで上り詰めて峠を越すと、ポプジカ谷というか盆地に入ります。つまり、4時間の間に上下する累積標高差は何と4700メートルで、その間の気温差はマイナス1度から24度です。

これだけの強行軍で数このお堂の落慶法要に参列したのには、それなりの理由があります。2009年に83歳で亡くなった私の恩師ロポン・ペマラには、2つの悲願がありました。
一つは、自らの生まれ故郷中央ブータンのチュメー谷にある、自らが小僧として出家・修行したニマルン寺院にトンドル(大軸装仏画)を奉納することでした。これは、日本人女性から寄進された浄財によって、1994年に立派に完成し、以後ニマルン寺院で毎年行われるツェチュ祭に開帳され、祭に精彩を加えています。
もう一つの悲願は、チベット仏教史上最大の学僧と見なされ、ロポン自らもその法灯を受け継いだロンチェン・ラプジャンパ(1308-1364)がブータンに建立した八つのお堂のうちの一つを再建することでした。これも、日本人男性からの浄財により可能になり、ロポンの生前には完成しませんでしたが、ロポンの遺志を太皇太后アシ・ケサン・チョドン(今年85歳)が受け継いで、2005年から10年の歳月をかけて立派に完成し、この度ブータン暦8月30日(西暦10月23日)に落慶法要が営まれました。幸いに、火曜日と金曜日週二回の授業の合間でしたので、休講にすることなく1泊2日の行程で参列することができた次第です。
このポプジカ谷の奥まったところは、標高は2800メートルほどで、午後になるとうなり声を立てて強い風が吹き抜けます。そのために木立は全くなく、荒涼としていて、人を寄せ付けません。しかしチベット・ブータン仏教には、こうしたところで、何年もの間瞑想に耽った高僧が数多くいます。彼らは、こうした極限に近い状態での修行によって、普通の人間が到達できない精神的な高みに至ったのだと思います。そして、このお堂が再建されたことにより、この伝統は今後も生き続けることでしょう。
落慶法要の日は新月で、私は朝4時頃に起きて、まさに漆黒の闇の中を散歩しました。盆地を囲む山肌は真っ黒で、稜線の上には少し青みを帯びた夜空が広がっています。聞こえるのは、谷底を流れるせせらぎの音だけです。最も感動的なのは、星が明るいことと、その数の多いことです。山の裾野に点在する数少ない民家の灯火も星のように見え、夜空と裾野は切れ目なく続いて一体化しています。
夜が明けると、盆地一帯は霜に覆われ真っ白で、その中で、陽光を浴び、澄み切った青空を背景に燦然と輝くお堂の金色の屋根の美しさは、まさに言葉では表わせない次元のものです。
落慶法要は、太皇太后の帰依処であった故ディンゴ・ケンツェ・リンポチェ(1910-1991)の化身(1995年生まれ)で、現時点でのチベット仏教ニンマ派系を代表する ヤンシ・リンポチェを導師として営まれ、太皇太后をはじめ、数多くの参列者がありました。昼食は、千人近くの老若男女(もちろん乳飲み子まで含めて)に振舞われましたが、おそらく谷中の人が集まっていたのだと思います。この中にいると、人間の営みとは、そして時間の流れとは、本当に様々だと実感します。GDPを至上の指針とするグローバリゼーションの荒波に身を投じて、世界の覇権争いをしている人たちの中にあって、心の安らぎと祈りに全エネルギーを投じているこの人たちを、どう捉えたらいいのか、判断に苦しみます。ただ一つはっきりしているのは、私にとっては、この人たちが何と人間的なのだろうと思えることだけです。
私にとってもう一つ嬉しかったのは、1980年代にブータンに滞在したとき以来の旧知の面々に再会できたことです。
今回のブータン滞在のはじめに、こうした機会に恵まれたことを心から喜んでいます。

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10月19日(日曜日)
秋晴れの日曜日、友人夫妻と25本の祈願幟(ダルシン)を立てに出かけました。
朝5時、まだ暗い中を車で1時間余ティンプから国道1号線を南に下りました。そこから未舗装の山道を1時間余り、ここは4輪駆動でしか登れない、典型的なブータンの道です。目指したお寺は、標高3000メートル以上で、すでに霜が降りていました。僧侶が30名程しかいないお寺ですが、僧正始め、92歳の老僧から5歳の小僧まで、みんなきびきびしています。まずは、暖かいおかゆをいただき、身体が温まりました。友人夫妻が祈願幟の準備をこのお寺に依頼しておいてくれたので、すべて整っていました。朝ご飯をいただき、いざ出発です。
お寺の後ろの峯の頂上まで、標高差300メートル程で、僕の足では1時間半ほどの歩きです。緯度的には沖縄くらいですから、太陽の陽射しは強いのですが、3000メートルを超えていて、朝方の気温は肌寒い位です。しかしブータン特有の勾配のきつい山道ですから、どうしても汗ばみます。幸いなのは、うっそうとした木立の中をくぐり抜けていきますから、陽が射さないことです。久しぶりに、この高度の山道を歩いたので、やはり少しこたえました。休み休みゆっくりと登って、頂の見晴らしのいいところに着くと、すでに丸太が25本用意されていて、先発した僧侶たちが、祈願幟の準備にかかっていました。
すぐ目の下を、パロ空港に向かう、おもちゃほどの大きさに見える飛行機が飛んでいますが、手を伸ばすと掴めるような錯覚がします。その彼方には、雪を頂くヒマラヤの峰々が見えます。
25本を立て終え、小さな法要を営んでもらい、家族の、そして人々の健康と幸せを祈りました。
こんな1日を送ると、ブータンが、世の喧噪とか出来事からいかにほど遠い世界かということを実感します。青空、強い日差し、辺り1面の緑の山肌、吹き抜ける風、静寂、まさに別天地です。
今回のブータン滞在は来年1月末までと長いのですが、その間週二回の古典チベット語の授業以外に仕事はありませんから、ゆっくりできます。来週には、恩師ロポン・ペマラの悲願であったお堂の修復が、太皇太后の手により完成し、その落慶法要に参列します。11月には中央ブータンのお祭に行き、12月には、ティンプの近くのドチュラ峠で4年前に新たに始められたお祭りを初めて見ることができそうです。久々に、ブータンで「生活」できそうで楽しみです。